2013
「瀬田さん。着きましたけど。そっちはどうですか?」
「こっちはさっき届いた」
携帯をいじりながらあいりは言う。まぁ、こっちはつけ刃程度にしかならない証拠だけどね。と付け加えて。
「甲斐くん自身が『おとり』とはいえ、最悪の事態を招きかねないから気をつけないと。ここが正念場だから気を引き締めていこ」
「ええ」
甲斐はポケットから携帯電話を取りだした。例の番号に電話をかけ、一度目を閉じる。相手の声が耳に届くと、昼間の事が思い出され身震いが走った。一瞬言葉を出すことを躊躇うが、隣りにいるあいりを見て勇気を振り絞る。あらかじめ用意したメモ書きを一気に読み上げた。
「あの、昼間○○町の家のことで電話した者ですけど。ええと。先ほどは大変失礼しました。突然電話して気を悪くされましたよね。あの、猫は別の場所で見つかって解決しましたので、ご安心下さい。それで、今電話したのはもう一つ用件があって――あの、あの家は本当に売らないのでしょうか? その、僕、来月結婚の予定があって新居を探していたんです。最初は新築の分譲マンションしか考えられなかったんですけど、昼間そちらの家を見ていたら中古の一軒家でもいいかなーって思えるようになって。彼女にもそのこと話したら一度見てみたいって乗り気なんですよ。だからもし、あの家を売る気があって、そちらの都合がよければこれから家の中を見せてもらいたいのですが」
電話を切らさぬよう、甲斐はそこまで一気に話した。しばらくの間沈黙が広がる。もしかしたら相手は甲斐の言葉に迷っているのかもしれない。甲斐は相手が食いつきそうな言葉を更に重ねた。
「実は僕の中ではあの家でほぼ決まっているんです。だから彼女がOK出してくれたらすぐに契約しようかと――印鑑も前金も用意してあるんですっ!」
甲斐はそこまで言うと相手の出方を待つ。結婚前の男というのは自分で考えた設定だ。返事が来るまでの間、甲斐の中では大丈夫だと言う思いと軽くあしらわれてしまったらどうしよう、という気持ちがせめぎ合う。だが甲斐の不安は杞憂に終わった。向こうからわかった、と低い声が耳に届いたからだ。
「今夜は無理だ。明日午前中なら、いい」
「う、わぁっ。ありがとうございます。そしたら会社休んで彼女と来ます。何時頃がよろしいですか?」
「十時、くらいなら」
「分かりました。そしたら明日の午前十時にお伺いしますので。では」
甲斐は話を終え、通話を切った。半年分の神経を使ったせいかどっと疲れが押し寄せる。甲斐はその場にしゃがみこんだ。
「ちょっと、大丈夫?」
あいりに支えられる自分はいつ見ても情けないなぁ、と思いつつ、甲斐は事が上手く運んだことにとりあえず安堵した。これで売主には翌日の十時まで猶予が与えられたことになる。
「たぶん、向こうは今日中に動くと思います」
甲斐たちは家から少し離れた塀に車をつけエンジンを切った。まれに通り過ぎる通行人に怪しまれないよう、本や携帯でカモフラージュをする。会話も小声だ。
窓を少しだけ開けても、夏の夜はじめっとして暑い。甲斐はあらかじめお茶を用意していたが、すでに半分以上が体の中に取り込まれている。一方あいりのペットボトルはまだ沢山の水が残っていた。甲斐はあいりについ、水分取らなくていいんですか、とお節介を入れてしまう。
「この中暑くないすか?」
「暑いにきまってるでしょ」
「じゃあ水分補給しないと――全然飲んでないじゃないですか」
「一気に飲むとトイレに行きたくなるから少しずつ飲むの」
あいりの答えになるほど、と甲斐は唸った。あいりたちはこんな場面を何回も繰り返していたのかと思うと、刑事という職業は難儀だなぁと思う。テレビドラマでは格好良く映っている部分も実際は血を吐くほどのねばり強さと辛抱が必要だ。これが昼間だったら自分は確実に脱水症状か貧血で倒れていただろう、と甲斐は思う。
張りこんでから一時間近くたつと、家の前に一台のワゴン車が現れた。玄関を塞ぐように停車する。運転席から人が降りた。反対の助手席からも扉の開く音がする。運転席の一人が建物の方へ向かった所で、甲斐とあいりは車から降り、そっと近づいた。彼らに気づかれないよう、車の陰に潜む。建物により近づくと甲斐たちの耳に男同士のこんな会話が聞こえてきた。
「その話、本当に信用していいんだな?」
「そりゃあ昼間一回脅しかけたのに、またかかってきたのには驚いたよ。でも、懲りずに電話かけてきたってのはよっぽどこの家が気に入ったとしか思えないだろ? しかも向こうは女連れで来るって言うし」
「まぁ、それもそうだな」
「で。本当にやるのか? 別の場所に移動するんじゃなくて?」
「今更怖じ気づいたか?」
「だって……」
「何言ってる。この家売って金にしないとこっちがヤバいの分かってるだろう? 時間がない。今日中に始末をつけるんだ」
その言葉に売主と思われる男はわかったよ、と渋々言う。その手で家の鍵が開けられ、数秒後に玄関の灯りが灯る。その瞬間二人の男の顔が明らかになった。あいりの肩がぴくりと動く。甲斐がやっぱり?と目で問うとあいりは小さく頷いた。どうやら自分の予想は大当たりだったらしい。
男二人が家の中に入ると、あいりは縮めていた膝を伸ばした。一度屈伸運動してからゆっくり立ち上がる。さっさと先に行ってしまったので、甲斐は出遅れてしまった。気配がないことに気づいたあいりが振り返る。
「何してるの? 行くんでしょ」
「それはそうですけど」
ここであいりのリーチが長いせいで置いてきぼりをくらったんだ、と言ったら怒られるだろうか? 甲斐はふと思い、別の言いわけを考えてしまう。
「その、これって不法侵入ですかね?」
「今更何よ。甲斐くんは待ち合わせの約束をしたんでしょ? だったら、正当な理由はどうともつけられる。『時間まで待ちきれなくて、立地条件や外観を調べようと近くまで来た』とか」
「そうですね『たまたま扉が開いてたから中に入ってみた』とか?」
「彼女と一緒って設定なら、いっそのこと腕組んで入ってみる?」
「え?」
「冗談よ。ほら、行きましょ」
一瞬だけ熱が走った甲斐はうぇい、と変な返しをしてしまう。二人は鍵のかかってない扉をそっと開けると靴を脱ぎ、男たちのあとを追った。
2013
「どーしたんですかこんな時間に。そっちはまだ仕事なんじゃないんですか?」
「残念ながら、今日は休みなんだなぁ~」
昔からの聞きなれた声に甲斐は小さくため息をつく。甲斐に電話をかけてきたのは中上だった。外から電話をかけているのか、雑音がする。
「時間ある? ちょっと会いたいんだけど」
「今人と会っているのでまた今度にしてください」
「ふーん。その相手はもしかして『鉄壁の巨人』ちゃん?」
ずばり答えを言い当てられ、甲斐はぎくりとする。なんでそれを、と呟くと受話器の向こうから中上の笑い声が聞こえた。さっき俺がよくいく店で会ったんだよ、と楽しそうに答える中上に甲斐は驚きを隠せない。あいりがそのことを口にしなかったから尚更だ。
「彼女独身でしょ? 最初は婚活かなんかだと思ってたんだけど、店長との話こっそり聞いたら人探ししてるっていうじゃん。面白そうだから少し首突っ込んじゃった」
「先輩は余計なことはしなくていいです」
「心外だなぁ。俺は人助けしただけなのに」
「先輩の人助けは偽善でしょうが。まさか、瀬田さんに変なこと言ってないでしょうね?」
「さあ、それはどうでしょう?」
逆に問い返され甲斐は頭を抱えた。中上がこんな切り返しをする時は、何かやらかしたと言うのがほとんどだ。本当中上と関わるとろくなことがない。一体何をあいりに吹きこんだというのだろう。
甲斐が口を尖らせていると、携帯からまぁ冗談はこのくらいにして、と声が聞こえる。
「その探し人について彼女に伝えておいてほしいことがあってさ。直接かけると不審がられるし、だからおまえに電話したんだよ」
「で、伝言は何ですか?」
「それがだな」
中上は一旦そこで言葉を切った。咳払いをひとつ聞いたあとで、ちゃんとメモしとけ、と言われたので甲斐はポケットから無地の手帳を出し、空白の頁を開く。携帯を顎と肩で支え、ペンを手に取った。
「まず、アキと揉めたという白鳥って男、周りには羽振り良く見せていたようだがありゃ嘘だ。手掛けてるアーティストが億単位の借金抱えてその肩代わりをしてたらしい。実際コイツの経営してる芸能プロダクションも今年に入って一度不渡りを出していた。その後、その借金抱えたアーティスト――tooyaって言うんだが、そいつが出したCDが売れたおかげである程度は返済できたという話だ。でも、一部ではそのCD自体が怪しいとの声も出てる」
「何でですか?」
甲斐の質問に中上はひとつの可能性を提示した。それを聞いて甲斐の表情が険しくなる。
「なんでそんな話が」
「まぁ、色々説は出てきたけど、共通してるのは前回のデビューCDから二年近く経っていることだな。一発屋でもこんなに時間をあけることは珍しいってさ。で、俺も気になってネットで調べてみたら、tooyaはここ一年音楽活動もろくにしてなくて、ファンクラブも事実上の休止状態だった。今回のCDが出るまでファンの一部ではtooyaが病気じゃないかと噂も出ていた位だ」
「そうですか……まぁ、tooya本人に色々あったとして、そこから復活したとは考えられません?」
甲斐は希望的見解を述べてみたが、中上からはさぁどうだろうねぇ、と疑問形で返してきた。
「これは俺の経験から言えることなんだが。音楽にしろ何にしろ一度止めてしまったら止める前まで完全に戻すのにかなり時間がかかるんだ。それこそ血のにじむような努力が必要なわけ」
「はぁ」
「たとえ止めずに続けていたとしても成長過程で好みや癖が微妙に変化する。なのに、tooyaの演奏は昔と何ら変わらないという評価が多い。だから疑いたくなるわけだ。とりあえず俺が調べたtooyaの経歴をメールで送るから、それを煮るなり焼くなり好きにしてくれ」
「分かりました。情報ありがとうございます」
じゃあな、中上の言葉を最後に通話は切れた。数分後、甲斐の携帯に予告されていたメールが届く。甲斐はそれを開くと記されていたURLに飛んだ。tooyaの経歴にざっと目を通そうとして――甲斐は大きく目を見開く。これは何かの偶然だろうか?
「確かめなきゃ」
甲斐は自分に言い聞かせるように呟いた。託された伝言を手に店内へ戻る。顔が強張っていたのか、カウンターに座っていたあいりにどうしたの? と声をかけられた。甲斐はカウンターに残ったウーロン茶を一気に飲み干す。そして瀬田さん、と声をかけ、あいりの目を見た。
「これから僕がすることに手を貸してもらえませんか? 確かめたいことがあるんです」
2013
甲斐はちょっとすみません、と言って席を外す。その間、あいりは残っていた酒をゆっくりと飲みながら今後のことを考える。するとカウンターの向こうからあいりちゃん、と親しげな声が聞こえた。どうやら店のマスターが長い休憩から帰ってきたらしい。
「どうしちゃったのその格好」
昼間とは違い、スーツで決めたあいりを見てマスターがぽっかりと口を開ける。あいりはまぁ色々ありまして、と言葉を濁した。話題を逸らそうとジントニックを頼む。
マスターは慣れた手つきで氷を砕き、予め冷やしておいたグラスの中へ入れた。冷蔵庫からドライジンとトニックウォーターの瓶を出した後、カウンターに置いてあったライムを手にする。流しで丁寧に洗 った後、ナイフでカットし、氷の入ったグラスに果汁を絞り入れる。酒ができるまで、あいりは自分の携帯を開いていた。ネットにつなぎ、音楽サイトを検索する。比較的有名な所を選んでトップページに入ると、欲しかった情報が目に飛び込んできた。相当な売れ行きなのか、特集のバナーまで作られている。あいりはバナーをクリックすると、その中で先月発売された曲をダウンロードする。携帯が自動的に曲を保存すると、マスターのお待たせしました、と言う声が聞こえた。
あいりは小さくお辞儀をすると、携帯の操作を止めグラスに口をつけた。マスターの作るジントニックは女性やアルコール感が苦手な人でも比較的飲みやすいよう、やや甘口に作ってある。グラスに残る氷はいびつでそれぞれの形は違うけど、趣があって美しい。ライムの爽やかな香りが今日の暑さをじんわりと溶かしていく。思わず笑顔が浮かんだ。
「マスターの作るジントニックはいつ飲んでも美味しいですね」
「それはどうもありがとう。で、アキちゃんは見つかった?」
マスターの真剣な顔を見て、あいりは少し困ったような顔をする。テーブルに置かれたままの猫をちらりと見てからそれがまだ、と小さく呟いた。
「衣咲の言ってたバーとか、心当たりありそうな人の所は行ったんだけど……そこにはいなくて」
「そっか」
嘆息するマスターを見て、あいりは目の前にアキの携帯があることを話すか少し悩む。話すとするなら甲斐が一緒にいる時がいいだろうとあいりは思う。
あいりは店の外をちらりと見た。甲斐が戻ってくる気配はない。そわそわしながら待っているとマスターの視線は自然とあいりの携帯に移っていた。
「珍しいね。ここで携帯いじるなんて」
「そうですか?」
「ここに来るとよく携帯の電源切ってたじゃない。そうしないと自分の時間が確保できないって」
「ああ」
そういえばそうだったな、とあいりは思い出す。刑事課に配属された当初、あまりの忙殺ぶりにあいりはげんなりとしていた。そして休日でも仕事の電話がかかってくる。あまりにもひどいので、ある日一晩だけ携帯の電源を切ったら上司から連絡があって、翌日こっぴどく叱られたことがあった。なのであいりは本当に仕事から解放されたい時――休日の一時間だけは電源を切るようにしている。
あいりはこの店に入ると、携帯の電源を必ず落としていたことを思い出した。今日もランチの時間は切っていたのだが、思いがけず甲斐と待ち合わせることになり、更に調べたいことがあったので今は電源を入れていた。
マスターは冗談半分であいりに尋ねる。
「彼氏にメールでも打ってた?」
「いやいやいや。音楽をダウンロードしてただけですよ」
それを証明するかの如く、あいりは携帯を操作した。流れてきたのはtooyaの「光と影」だ。ピアノの美しい旋律が小さなスピーカーから流れてくる。
「衣咲に聞いたら、この人の曲が人気あるとか」
「へぇ……」
マスターは携帯から流れる音楽にしばらく耳を傾けていた。最初は穏やかな表情でいたが何回かリピートされるうちにマスターの眉間のしわが寄っていく。最後にはううん、と唸り始めたのだ。あいりは携帯の音を止める。
「どうしました?」
「このメロディ、ずっと前に聞いたような気がしたから……」
「テレビとかラジオで聞いたとか?」
「いや、そうじゃなくて」
マスターはそう言って考え込む。そしてたっぷり十秒おいたあとでああそうか、と納得した声をあげた。
「アキちゃんがここで弾いてたんだ」
「え?」
「ライブが始まる時、ピアノの音合わせのかわりにその曲を弾いてたんだよ。だいぶ前のことだから忘れかけてたわ」
「だいぶ前って――いつ?」
「ええと、春の新しいメニュー考えてた頃だから……三月のはじめくらいかな?」
マスターの話にあいりは口を結ぶ。ふっと、とんでもない想像が下りたからだ。まさか、とあいりは呟く。
もともとアキはtooyaに憧れていた。彼の曲は何度も聞いていたに違いない。熱烈なファンならメロディパターンも熟知していただろうし、曲を作ったら雰囲気がかぶることもあるだろう。あいりはそう自分に言い聞かせた。だが、一度湧いた想像はなかなか消し去ることができない。
あいりは思った。もし、自分の想像が正しいとすれば――アキと連絡が取れなくなった理由がつく。でも、それはあくまでも推測であって確実な証拠はないのだ。
「ねぇマスター」
お願いがあるんだけど、あいりはそう言ってマスターにひとつ頼みごとをした。マスターはじゃあバンドの仲間に聞いてみるよ、と言って店の奥へと足を運んだ。あいりは手元のグラスを傾ける。カラカラになった喉をライムのお酒で少しずつ潤していると、甲斐が神妙な面持ちで戻ってきた。
2013
数時間ぶりに店へ戻ると、店員があいりを快く迎えた。
「おかえりなさいあいりさん。ワンコちゃん、お待ちですよ」
その言葉にあいりは苦笑する。ゆっくりと店内を見渡すと、店員が言ったとおり甲斐がカウンター席に座っているのが確認できた。さっきあいりが座っていた席でウーロン茶をちびちび飲んでいる。
「甲斐くん、お待たせ」
あいりが近づき、声をかける。すると甲斐は、ああ瀬田さん、仕事お疲れ様です、と挨拶をしたした。まるで仕事帰りの人間をねぎらうような台詞にあいりは首を横にかしげる。何でそんな風に聞かれるのかと一瞬思ったが、今自分がスーツを着ていることをすぐ思い出してああ、と納得する。でもいちいち説明するのも何なので、そこは省略する。
「ごめんね。急に呼び出して」
「別に大丈夫ですよ。今日は非番ですし」
そして下戸の甲斐はお茶を口につける。半分まで飲んだ所であいりは事の経緯を説明した。
甲斐が拾った携帯の持ち主である安芸翠という女性がここ最近消息を絶っていること。一週間前、ピアノの弾き語りをしていたバーで客と揉めたこと。その客は音楽関係者で、彼女の才能を認めていて、デビューさせようとしていたが、その契約内容に行き違いがあったらしいこと。それらをかいつまんで説明したあとで、あいりは一度言葉を切る。目の前に出されたサワーをを一口飲んで喉を潤した。
「彼女の消息はそこで途絶えたんだけど、そんな時に甲斐くんから電話があったわけ」
それはまさに偶然の悪戯だったとあいりは思う。そのおかげで閉ざされた道に風穴が開いたのだから。
甲斐はあいりの話にそうなんですか、と呟く。
「甲斐くんはその携帯、どういういきさつで見つけたの?」
「ええと、それが――」
甲斐はあいりをちらりと見た後に体を委縮した。口をもごもごさせ、何かを躊躇う仕草。そわそわした動きにあいりはどうしたの? と声をかける。
「携帯拾ったんでしょ? なんか迷い猫探してたって言ったけど」
「ええっとその、事情がちょっと複雑でして」
「何か、良からぬ方法で手に入れたとか?」
「いいえ、そんなことは。ただ」
「ただ?」
「その、最終的には犯罪になっちゃうのかなーという感じでして」
「まどろっこしいなぁ。とりあえず話聞くから、包み隠さず話して。ヤバイかどうかの判断はあとでするから」
さあ、とせかすあいりに、甲斐はわかりました、と頷く。
「ええと、まず最初に。これがアキさんという人の携帯なんですけど――」
そう言って甲斐は自分のポケットから出したのは、もこもこした毛玉にくるまれている携帯電話だった。携帯を大事そうに抱える猫の姿にあいりはあら、と目を輝かせる。可愛い、という言葉が思わずこぼれた。
「何これ、すっごい癒されるーーっ」
あいりは携帯を手にとってみた。
「これ、携帯カバー? おなかの部分は携帯クリーナーになってるんだ。うーわー可愛い。欲しいなぁ。これ、何処で売ってるんだろう」
くっついてるぬいぐるみを取ったり外したりするあいりは楽しげだ。あいりが携帯に夢中になってしまったため、甲斐の話は出鼻からくじかれてしまう。
「あのぉ、瀬田さん?」
「え?」
「そろそろ話をしてもいいでしょうか?」
「は、はい。そうだったわね」
あいりは我に返る。自分のはしゃぎっぷりに赤面した。アキの携帯をテーブルの上に戻すと、緩んだ顔を手で戻した。呼吸を整え、余計な感情を払拭する。
あいりが可愛いもの好きだということは、実は周りにあまり知られていない。そのいでたちや男気たっぷりの性格に周りもそういった結びつきは考えられないらしく、刑事になってからはあいりも意図的に隠していた。今自分の趣味を知っているのは、以前の捜査でたまたま知ってしまった甲斐ひとりだけ。もちろん衣咲に知られるなんてご法度だ。
衣咲の前でこんな反応したら、きっとそれを山のように集めてくるだろう。そしてそれをネタに自分を懐柔しようと企むのは目に見えていたので、あいりは極力隠していた。
甲斐はこっそり息をつくと、ええとですね、と改めて話し始める。
「僕は最初、アパートの大家さんから近所に迷い猫がいるらしいって聞いて。鳴き声が気になるから探してほしいって頼まれたんです。猫の鳴き声がしたのは民家の――って言っても売りに出されてる家なんですけどね。そこから聞こえまして」
そう言って甲斐は家の間取りを説明する。相変わらず甲斐の説明はたどたどしかったが、要所を拾うと、どうやらそこには地下室があり、その換気口から猫の声が聞こえてくるのを甲斐は確認したのだという。
「このままだと猫が死んじゃうかもしれないって思って。外側から換気口に入ろうとしたんですけど、蓋が閉まってて内側からじゃないと駄目で。だから売主に連絡して、家の鍵開けてもらうよう頼んだんですよ。でもその売主の人ってのがすごく変で怖い人で。事情を話しても鍵を貸してくれなかったんです。
それで一旦家に戻ったんですけど、そのあともう一度その家に行って、家の前で道路工事していた人の力を借りて、その蓋を開けてもらったんです」
「つまり、外から壊して侵入したってこと?」
「壊してはいないけど、まぁそういうことです。で、中に入って探したら猫のかわりにこの携帯が出てきまして。そしたら工事の人が持ち主探すのに電話かけ始めちゃって」
「そしたら私の携帯に繋がった――と」
「はい」
甲斐の話をひととおり聞き、あいりはそっか、と呟く。背中を丸め、頬づえをついた。テーブルに置かれた猫を見つめながら考えを巡らせる。重要なのはアキの携帯が何故そこにあったか、という所だろう。
ひとつの可能性としては、その家にアキが一度訪れたということだ。そして何らかの理由で携帯を手放した(落とした)ということになる。
その仮定が正しかった場合、家がいつから売りに出されたかが鍵となる。そして売主が誰かということも。
「甲斐くん。その家、いつから売りに出されたのか分かる? あと売主の名前とか」
「売りに出された時期は知らないですけど、売主だったら表の貼り紙にかいてありましたよ。長島さん、とか。そんなことよりも、教えてくれません?」
「え?」
「え? じゃないですよ。さっき言ったじゃないですか。『ヤバイかどうかの判断はあとでする』って」
僕、罪に問われるんですかねぇ。甲斐はそう呟くと肩を落とした。今にも泣きそうな――まさにしょげた犬の雰囲気にあいりは推理を中断せざるを得ない。
あいりの判断で言うなら甲斐は不法侵入と器物破損、個人情報略取の疑いがある。更に深く突っ込めばその罪は甲斐を手伝った工事現場の人物にも当てはまる。
だが猫を助けたいという正当理由があり携帯も善意でかけた故、それらが完全に適用されるかというと判断は難しい。甲斐のしたことは犯罪や法令に抵触する行為とは言い難く、ぶっちゃけていえば、確保した警察官の裁量によって逮捕か厳重注意かが決まるといった所だ。それに――
この時、あいりの脳裏には中上の言葉が浮かんでいた。甲斐が何か困っていたら助けてやってくれと。借りを返すなら今のかもしれないとあいりは思った。
「まぁ、この話は私の胸だけにおさめておくわ。くれぐれも口外しないでね」
「ということは――無罪ですかっ?」
「厳重注意ってことよ。今度から気をつけてね」
あいりの言葉に甲斐の顔がぱあっと明るくなる。見えない尻尾がぱたぱたと揺れた。
「ありがとうございますっ。この借りはいつかお返ししますから。というか、何か奢りましょうか?」
その聞いたことのある台詞にあいりは思わず苦笑する。
「別にいいわよ。私は借りを返しただけだから」
「え? 僕、瀬田さんに貸しありましたっけ?」
その時、甲斐が自分の胸元に手を当てた。甲斐の持っていた携帯が震えたのだ。
2013
「あなたがこの電話の持ち主を善意で探そうという気持ちは分かります。でも、感情抜きで考えたらそれって勝手に携帯の中覗いたことになりません? そのせいで向こうに不信感や不快感を与えてしまうこともあるんです。貴方だって、見ず知らずの人に『あなたの友人の携帯拾ったから電話してみた』と言われた時、素直に信じますか? それと同じことです。そういうわけで、とにかく携帯動かすの止めてもらえますか?」
「そういうことなら分かったけど――でも」
「でも?」
「もう電話かけちゃって、相手出てるんだけど」
「えぇー」
会話の中にアキらしき女性の声はない。男性二人のやりとりは間抜けなコントにも聞こえた。
それにしても、とあいりは思う。二人の男の声の一方をどこかで聞いたような気がするのだ。一体誰だろうとあいりが考えあぐねていると、当の本人からもしもし、と話しかけられる。
「あの、突然電話してごめんなさい。実はこちらの携帯を拾って、うっかり操作をしてしまって――あの、怪しまれてしまうのも何なのですがええと……とにかく明日ちゃんと警察に届け出しますので。もし携帯の持ち主に会う機会がありましたら、電話会社から連絡が来るまで待ってて下さいと伝えてもらえませんか?
あの、本当に怪しいものじゃないんです。僕、警察官じゃないんですけど警察で働いていまして、名前を甲斐といいまして――」
「甲斐?」
あいりは思わず声を上げる。声を聞いたせいか向こうで、あれ? という素っ頓狂な声が上がった。きっとあちらもどこかで聞いた声だなぁ、と思っているのだろう。予想外の人物の登場にあいりが驚愕したのは言うまでもない。
あいりは人差し指を眉間につきたてた。しばらく黙りこんだあとでもしや、と質問する。
「そっちは死体を見るとひっくり返る甲斐さんで?」
「ええと、そちらは鉄壁の巨じ――いや、刑事課の瀬田さんで?」
「さっき巨人って言いかけた?」
「いえいえめっそうもない」
甲斐は携帯を持ったまま首を横に振ったのか、声が割れている。その一言にあいりの顔がひきつった。甲斐が必死に否定する時は真実をついているのがほとんどだ。いっそのことセクハラで訴えてやろうかとあいりは思うが、ひとまずそのことは横に置くことにした。あいりが突然静かになったのが気になったらしい。甲斐があのぉ、と恐る恐る聞いてくる。
「この携帯、瀬田さんの家族の携帯なんですか?」
「家族とは違うんだけど――その携帯の持ち主を探してたの。それ、どこにあった?」
「うちの近所です。最初は子猫探してたんですけど、その正体が実は携帯で」
「は?」
「ええと、つまりですね」
甲斐はこれまでのいきさつを説明しようとする。が、あいりはちょっと待って、と言葉を遮った。
「甲斐くんさえよければその話、どこか別の場所で話してくれない?」
「それは別に構わないですけど」
「じゃあ、署の近くまで来て。この間私とお昼食べた店、覚えてる? あそこで待ってるから」
「分かりました」
じゃあまたあとで、そう言ってあいりは甲斐との電話を切る。
最初は単なる人探しだったのに、まさかこんな所で甲斐と関わるとは思いもしなかった。中上のこともそうだ。偶然が運んだだけとはいえ、あいりは甲斐に妙な縁を感じてしまう。世の中なんてそんなものなのだろうか?
あいりがなんとも言えぬ顔でいた次の瞬間、殺気にも似た気配を背中に感じた。振り返ると、衣咲が怖い目で見ている。おねーさま、と地を這うような声が耳に届く。
「なんなんですか今の話は。何でアキちゃんの携帯に『バカ犬』が出てくるんですかっ」
衣咲が言う「バカ犬」とはもちろん甲斐のことである。バカと甲斐と犬を足して短縮させたものだ。まさかバカ犬がアキちゃん拉致ったとかないでしょうねぇ? 衣咲が目を爛々とさせながら詰め寄るものだから、あいりは違うって! といつもより大きな声を上げる。
「偶然彼女の携帯を拾ったんだって。で、うっかり携帯操作しちゃったって――」
「本当ですか? あのバカ犬、あいりおねーさまだけじゃなく、アキちゃんまで尻尾振ろうと考えてたんじゃないんですか? だったら許せない」
そう言うと衣咲はあいりを追い越し、界隈の出口に向かってずんずんと進んで行く。
「どこ行くの」
「勿論、バカ犬に一言言ってやるんです。私の邪魔するなって。おねーさま、これから店で会うんでしょ? だったら私も」
「あんたは家に帰りなさい」
「えーっ、バイト先なのにぃ」
「あんたの仕事は昼間だけでしょ。それに未成年を酒場にホイホイ連れてくわけにはいかないの。それとも私が警察クビになってもいいわけ?そしたら一生あんたのこと恨むからね」
あいりの正論に流石の衣咲も反論の言葉を失う。まだ不服そうで口も尖らせていたが、結局衣咲はあいりの言葉に従った。
「ほら、駅まで送っていくから。ちゃんと家まで帰るのよ」
「はぁい」
気のない返事が衣咲の口から漏れた。大人しく退散するかわりにあいりの腕にしがみつく。
「アキちゃんのこと、何か分かったらちゃんと教えて下さいね。約束ですよ」
「はいはい」
のしかかる重みに耐えながら、あいりは相づちを打った。