2013
甲斐はちょっとすみません、と言って席を外す。その間、あいりは残っていた酒をゆっくりと飲みながら今後のことを考える。するとカウンターの向こうからあいりちゃん、と親しげな声が聞こえた。どうやら店のマスターが長い休憩から帰ってきたらしい。
「どうしちゃったのその格好」
昼間とは違い、スーツで決めたあいりを見てマスターがぽっかりと口を開ける。あいりはまぁ色々ありまして、と言葉を濁した。話題を逸らそうとジントニックを頼む。
マスターは慣れた手つきで氷を砕き、予め冷やしておいたグラスの中へ入れた。冷蔵庫からドライジンとトニックウォーターの瓶を出した後、カウンターに置いてあったライムを手にする。流しで丁寧に洗 った後、ナイフでカットし、氷の入ったグラスに果汁を絞り入れる。酒ができるまで、あいりは自分の携帯を開いていた。ネットにつなぎ、音楽サイトを検索する。比較的有名な所を選んでトップページに入ると、欲しかった情報が目に飛び込んできた。相当な売れ行きなのか、特集のバナーまで作られている。あいりはバナーをクリックすると、その中で先月発売された曲をダウンロードする。携帯が自動的に曲を保存すると、マスターのお待たせしました、と言う声が聞こえた。
あいりは小さくお辞儀をすると、携帯の操作を止めグラスに口をつけた。マスターの作るジントニックは女性やアルコール感が苦手な人でも比較的飲みやすいよう、やや甘口に作ってある。グラスに残る氷はいびつでそれぞれの形は違うけど、趣があって美しい。ライムの爽やかな香りが今日の暑さをじんわりと溶かしていく。思わず笑顔が浮かんだ。
「マスターの作るジントニックはいつ飲んでも美味しいですね」
「それはどうもありがとう。で、アキちゃんは見つかった?」
マスターの真剣な顔を見て、あいりは少し困ったような顔をする。テーブルに置かれたままの猫をちらりと見てからそれがまだ、と小さく呟いた。
「衣咲の言ってたバーとか、心当たりありそうな人の所は行ったんだけど……そこにはいなくて」
「そっか」
嘆息するマスターを見て、あいりは目の前にアキの携帯があることを話すか少し悩む。話すとするなら甲斐が一緒にいる時がいいだろうとあいりは思う。
あいりは店の外をちらりと見た。甲斐が戻ってくる気配はない。そわそわしながら待っているとマスターの視線は自然とあいりの携帯に移っていた。
「珍しいね。ここで携帯いじるなんて」
「そうですか?」
「ここに来るとよく携帯の電源切ってたじゃない。そうしないと自分の時間が確保できないって」
「ああ」
そういえばそうだったな、とあいりは思い出す。刑事課に配属された当初、あまりの忙殺ぶりにあいりはげんなりとしていた。そして休日でも仕事の電話がかかってくる。あまりにもひどいので、ある日一晩だけ携帯の電源を切ったら上司から連絡があって、翌日こっぴどく叱られたことがあった。なのであいりは本当に仕事から解放されたい時――休日の一時間だけは電源を切るようにしている。
あいりはこの店に入ると、携帯の電源を必ず落としていたことを思い出した。今日もランチの時間は切っていたのだが、思いがけず甲斐と待ち合わせることになり、更に調べたいことがあったので今は電源を入れていた。
マスターは冗談半分であいりに尋ねる。
「彼氏にメールでも打ってた?」
「いやいやいや。音楽をダウンロードしてただけですよ」
それを証明するかの如く、あいりは携帯を操作した。流れてきたのはtooyaの「光と影」だ。ピアノの美しい旋律が小さなスピーカーから流れてくる。
「衣咲に聞いたら、この人の曲が人気あるとか」
「へぇ……」
マスターは携帯から流れる音楽にしばらく耳を傾けていた。最初は穏やかな表情でいたが何回かリピートされるうちにマスターの眉間のしわが寄っていく。最後にはううん、と唸り始めたのだ。あいりは携帯の音を止める。
「どうしました?」
「このメロディ、ずっと前に聞いたような気がしたから……」
「テレビとかラジオで聞いたとか?」
「いや、そうじゃなくて」
マスターはそう言って考え込む。そしてたっぷり十秒おいたあとでああそうか、と納得した声をあげた。
「アキちゃんがここで弾いてたんだ」
「え?」
「ライブが始まる時、ピアノの音合わせのかわりにその曲を弾いてたんだよ。だいぶ前のことだから忘れかけてたわ」
「だいぶ前って――いつ?」
「ええと、春の新しいメニュー考えてた頃だから……三月のはじめくらいかな?」
マスターの話にあいりは口を結ぶ。ふっと、とんでもない想像が下りたからだ。まさか、とあいりは呟く。
もともとアキはtooyaに憧れていた。彼の曲は何度も聞いていたに違いない。熱烈なファンならメロディパターンも熟知していただろうし、曲を作ったら雰囲気がかぶることもあるだろう。あいりはそう自分に言い聞かせた。だが、一度湧いた想像はなかなか消し去ることができない。
あいりは思った。もし、自分の想像が正しいとすれば――アキと連絡が取れなくなった理由がつく。でも、それはあくまでも推測であって確実な証拠はないのだ。
「ねぇマスター」
お願いがあるんだけど、あいりはそう言ってマスターにひとつ頼みごとをした。マスターはじゃあバンドの仲間に聞いてみるよ、と言って店の奥へと足を運んだ。あいりは手元のグラスを傾ける。カラカラになった喉をライムのお酒で少しずつ潤していると、甲斐が神妙な面持ちで戻ってきた。
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数時間ぶりに店へ戻ると、店員があいりを快く迎えた。
「おかえりなさいあいりさん。ワンコちゃん、お待ちですよ」
その言葉にあいりは苦笑する。ゆっくりと店内を見渡すと、店員が言ったとおり甲斐がカウンター席に座っているのが確認できた。さっきあいりが座っていた席でウーロン茶をちびちび飲んでいる。
「甲斐くん、お待たせ」
あいりが近づき、声をかける。すると甲斐は、ああ瀬田さん、仕事お疲れ様です、と挨拶をしたした。まるで仕事帰りの人間をねぎらうような台詞にあいりは首を横にかしげる。何でそんな風に聞かれるのかと一瞬思ったが、今自分がスーツを着ていることをすぐ思い出してああ、と納得する。でもいちいち説明するのも何なので、そこは省略する。
「ごめんね。急に呼び出して」
「別に大丈夫ですよ。今日は非番ですし」
そして下戸の甲斐はお茶を口につける。半分まで飲んだ所であいりは事の経緯を説明した。
甲斐が拾った携帯の持ち主である安芸翠という女性がここ最近消息を絶っていること。一週間前、ピアノの弾き語りをしていたバーで客と揉めたこと。その客は音楽関係者で、彼女の才能を認めていて、デビューさせようとしていたが、その契約内容に行き違いがあったらしいこと。それらをかいつまんで説明したあとで、あいりは一度言葉を切る。目の前に出されたサワーをを一口飲んで喉を潤した。
「彼女の消息はそこで途絶えたんだけど、そんな時に甲斐くんから電話があったわけ」
それはまさに偶然の悪戯だったとあいりは思う。そのおかげで閉ざされた道に風穴が開いたのだから。
甲斐はあいりの話にそうなんですか、と呟く。
「甲斐くんはその携帯、どういういきさつで見つけたの?」
「ええと、それが――」
甲斐はあいりをちらりと見た後に体を委縮した。口をもごもごさせ、何かを躊躇う仕草。そわそわした動きにあいりはどうしたの? と声をかける。
「携帯拾ったんでしょ? なんか迷い猫探してたって言ったけど」
「ええっとその、事情がちょっと複雑でして」
「何か、良からぬ方法で手に入れたとか?」
「いいえ、そんなことは。ただ」
「ただ?」
「その、最終的には犯罪になっちゃうのかなーという感じでして」
「まどろっこしいなぁ。とりあえず話聞くから、包み隠さず話して。ヤバイかどうかの判断はあとでするから」
さあ、とせかすあいりに、甲斐はわかりました、と頷く。
「ええと、まず最初に。これがアキさんという人の携帯なんですけど――」
そう言って甲斐は自分のポケットから出したのは、もこもこした毛玉にくるまれている携帯電話だった。携帯を大事そうに抱える猫の姿にあいりはあら、と目を輝かせる。可愛い、という言葉が思わずこぼれた。
「何これ、すっごい癒されるーーっ」
あいりは携帯を手にとってみた。
「これ、携帯カバー? おなかの部分は携帯クリーナーになってるんだ。うーわー可愛い。欲しいなぁ。これ、何処で売ってるんだろう」
くっついてるぬいぐるみを取ったり外したりするあいりは楽しげだ。あいりが携帯に夢中になってしまったため、甲斐の話は出鼻からくじかれてしまう。
「あのぉ、瀬田さん?」
「え?」
「そろそろ話をしてもいいでしょうか?」
「は、はい。そうだったわね」
あいりは我に返る。自分のはしゃぎっぷりに赤面した。アキの携帯をテーブルの上に戻すと、緩んだ顔を手で戻した。呼吸を整え、余計な感情を払拭する。
あいりが可愛いもの好きだということは、実は周りにあまり知られていない。そのいでたちや男気たっぷりの性格に周りもそういった結びつきは考えられないらしく、刑事になってからはあいりも意図的に隠していた。今自分の趣味を知っているのは、以前の捜査でたまたま知ってしまった甲斐ひとりだけ。もちろん衣咲に知られるなんてご法度だ。
衣咲の前でこんな反応したら、きっとそれを山のように集めてくるだろう。そしてそれをネタに自分を懐柔しようと企むのは目に見えていたので、あいりは極力隠していた。
甲斐はこっそり息をつくと、ええとですね、と改めて話し始める。
「僕は最初、アパートの大家さんから近所に迷い猫がいるらしいって聞いて。鳴き声が気になるから探してほしいって頼まれたんです。猫の鳴き声がしたのは民家の――って言っても売りに出されてる家なんですけどね。そこから聞こえまして」
そう言って甲斐は家の間取りを説明する。相変わらず甲斐の説明はたどたどしかったが、要所を拾うと、どうやらそこには地下室があり、その換気口から猫の声が聞こえてくるのを甲斐は確認したのだという。
「このままだと猫が死んじゃうかもしれないって思って。外側から換気口に入ろうとしたんですけど、蓋が閉まってて内側からじゃないと駄目で。だから売主に連絡して、家の鍵開けてもらうよう頼んだんですよ。でもその売主の人ってのがすごく変で怖い人で。事情を話しても鍵を貸してくれなかったんです。
それで一旦家に戻ったんですけど、そのあともう一度その家に行って、家の前で道路工事していた人の力を借りて、その蓋を開けてもらったんです」
「つまり、外から壊して侵入したってこと?」
「壊してはいないけど、まぁそういうことです。で、中に入って探したら猫のかわりにこの携帯が出てきまして。そしたら工事の人が持ち主探すのに電話かけ始めちゃって」
「そしたら私の携帯に繋がった――と」
「はい」
甲斐の話をひととおり聞き、あいりはそっか、と呟く。背中を丸め、頬づえをついた。テーブルに置かれた猫を見つめながら考えを巡らせる。重要なのはアキの携帯が何故そこにあったか、という所だろう。
ひとつの可能性としては、その家にアキが一度訪れたということだ。そして何らかの理由で携帯を手放した(落とした)ということになる。
その仮定が正しかった場合、家がいつから売りに出されたかが鍵となる。そして売主が誰かということも。
「甲斐くん。その家、いつから売りに出されたのか分かる? あと売主の名前とか」
「売りに出された時期は知らないですけど、売主だったら表の貼り紙にかいてありましたよ。長島さん、とか。そんなことよりも、教えてくれません?」
「え?」
「え? じゃないですよ。さっき言ったじゃないですか。『ヤバイかどうかの判断はあとでする』って」
僕、罪に問われるんですかねぇ。甲斐はそう呟くと肩を落とした。今にも泣きそうな――まさにしょげた犬の雰囲気にあいりは推理を中断せざるを得ない。
あいりの判断で言うなら甲斐は不法侵入と器物破損、個人情報略取の疑いがある。更に深く突っ込めばその罪は甲斐を手伝った工事現場の人物にも当てはまる。
だが猫を助けたいという正当理由があり携帯も善意でかけた故、それらが完全に適用されるかというと判断は難しい。甲斐のしたことは犯罪や法令に抵触する行為とは言い難く、ぶっちゃけていえば、確保した警察官の裁量によって逮捕か厳重注意かが決まるといった所だ。それに――
この時、あいりの脳裏には中上の言葉が浮かんでいた。甲斐が何か困っていたら助けてやってくれと。借りを返すなら今のかもしれないとあいりは思った。
「まぁ、この話は私の胸だけにおさめておくわ。くれぐれも口外しないでね」
「ということは――無罪ですかっ?」
「厳重注意ってことよ。今度から気をつけてね」
あいりの言葉に甲斐の顔がぱあっと明るくなる。見えない尻尾がぱたぱたと揺れた。
「ありがとうございますっ。この借りはいつかお返ししますから。というか、何か奢りましょうか?」
その聞いたことのある台詞にあいりは思わず苦笑する。
「別にいいわよ。私は借りを返しただけだから」
「え? 僕、瀬田さんに貸しありましたっけ?」
その時、甲斐が自分の胸元に手を当てた。甲斐の持っていた携帯が震えたのだ。
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「あなたがこの電話の持ち主を善意で探そうという気持ちは分かります。でも、感情抜きで考えたらそれって勝手に携帯の中覗いたことになりません? そのせいで向こうに不信感や不快感を与えてしまうこともあるんです。貴方だって、見ず知らずの人に『あなたの友人の携帯拾ったから電話してみた』と言われた時、素直に信じますか? それと同じことです。そういうわけで、とにかく携帯動かすの止めてもらえますか?」
「そういうことなら分かったけど――でも」
「でも?」
「もう電話かけちゃって、相手出てるんだけど」
「えぇー」
会話の中にアキらしき女性の声はない。男性二人のやりとりは間抜けなコントにも聞こえた。
それにしても、とあいりは思う。二人の男の声の一方をどこかで聞いたような気がするのだ。一体誰だろうとあいりが考えあぐねていると、当の本人からもしもし、と話しかけられる。
「あの、突然電話してごめんなさい。実はこちらの携帯を拾って、うっかり操作をしてしまって――あの、怪しまれてしまうのも何なのですがええと……とにかく明日ちゃんと警察に届け出しますので。もし携帯の持ち主に会う機会がありましたら、電話会社から連絡が来るまで待ってて下さいと伝えてもらえませんか?
あの、本当に怪しいものじゃないんです。僕、警察官じゃないんですけど警察で働いていまして、名前を甲斐といいまして――」
「甲斐?」
あいりは思わず声を上げる。声を聞いたせいか向こうで、あれ? という素っ頓狂な声が上がった。きっとあちらもどこかで聞いた声だなぁ、と思っているのだろう。予想外の人物の登場にあいりが驚愕したのは言うまでもない。
あいりは人差し指を眉間につきたてた。しばらく黙りこんだあとでもしや、と質問する。
「そっちは死体を見るとひっくり返る甲斐さんで?」
「ええと、そちらは鉄壁の巨じ――いや、刑事課の瀬田さんで?」
「さっき巨人って言いかけた?」
「いえいえめっそうもない」
甲斐は携帯を持ったまま首を横に振ったのか、声が割れている。その一言にあいりの顔がひきつった。甲斐が必死に否定する時は真実をついているのがほとんどだ。いっそのことセクハラで訴えてやろうかとあいりは思うが、ひとまずそのことは横に置くことにした。あいりが突然静かになったのが気になったらしい。甲斐があのぉ、と恐る恐る聞いてくる。
「この携帯、瀬田さんの家族の携帯なんですか?」
「家族とは違うんだけど――その携帯の持ち主を探してたの。それ、どこにあった?」
「うちの近所です。最初は子猫探してたんですけど、その正体が実は携帯で」
「は?」
「ええと、つまりですね」
甲斐はこれまでのいきさつを説明しようとする。が、あいりはちょっと待って、と言葉を遮った。
「甲斐くんさえよければその話、どこか別の場所で話してくれない?」
「それは別に構わないですけど」
「じゃあ、署の近くまで来て。この間私とお昼食べた店、覚えてる? あそこで待ってるから」
「分かりました」
じゃあまたあとで、そう言ってあいりは甲斐との電話を切る。
最初は単なる人探しだったのに、まさかこんな所で甲斐と関わるとは思いもしなかった。中上のこともそうだ。偶然が運んだだけとはいえ、あいりは甲斐に妙な縁を感じてしまう。世の中なんてそんなものなのだろうか?
あいりがなんとも言えぬ顔でいた次の瞬間、殺気にも似た気配を背中に感じた。振り返ると、衣咲が怖い目で見ている。おねーさま、と地を這うような声が耳に届く。
「なんなんですか今の話は。何でアキちゃんの携帯に『バカ犬』が出てくるんですかっ」
衣咲が言う「バカ犬」とはもちろん甲斐のことである。バカと甲斐と犬を足して短縮させたものだ。まさかバカ犬がアキちゃん拉致ったとかないでしょうねぇ? 衣咲が目を爛々とさせながら詰め寄るものだから、あいりは違うって! といつもより大きな声を上げる。
「偶然彼女の携帯を拾ったんだって。で、うっかり携帯操作しちゃったって――」
「本当ですか? あのバカ犬、あいりおねーさまだけじゃなく、アキちゃんまで尻尾振ろうと考えてたんじゃないんですか? だったら許せない」
そう言うと衣咲はあいりを追い越し、界隈の出口に向かってずんずんと進んで行く。
「どこ行くの」
「勿論、バカ犬に一言言ってやるんです。私の邪魔するなって。おねーさま、これから店で会うんでしょ? だったら私も」
「あんたは家に帰りなさい」
「えーっ、バイト先なのにぃ」
「あんたの仕事は昼間だけでしょ。それに未成年を酒場にホイホイ連れてくわけにはいかないの。それとも私が警察クビになってもいいわけ?そしたら一生あんたのこと恨むからね」
あいりの正論に流石の衣咲も反論の言葉を失う。まだ不服そうで口も尖らせていたが、結局衣咲はあいりの言葉に従った。
「ほら、駅まで送っていくから。ちゃんと家まで帰るのよ」
「はぁい」
気のない返事が衣咲の口から漏れた。大人しく退散するかわりにあいりの腕にしがみつく。
「アキちゃんのこと、何か分かったらちゃんと教えて下さいね。約束ですよ」
「はいはい」
のしかかる重みに耐えながら、あいりは相づちを打った。
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「こんなんじゃ嫁の貰い手もつかないわ。アンタ、もっとしっかりしなさいよ」
甲斐は余計なお節介だと思いつつも、はぁ、と返事をする。そして楓からは猫は? いつ猫ちゃん助けるの? とせがまれた。
結局甲斐が再びあの家を訪れたのは夕方五時を回ってからだ。甲斐は暑さの和らいだ道をゆっくり歩く。家の前の工事はだいぶ進んでいて、今日の仕事は終わったらしい。工事現場にいた男たちは片づけを始めていた。
不審がられても仕方ないので、彼らがいなくなったら行動に出よう、甲斐がそう判断した矢先だった。工事現場にいた男の一人が甲斐に近づき、声をかけてきた。
「よぉ。さっきここにいた兄ちゃんじゃねぇか」
五十代前半とおぼしき男の言葉に甲斐はえぇ? と声をしゃくりあげる。
「さっき子供背負って勢いよく飛び出していったろ?」
「げ、さっきの見てましたか?」
「そりゃ真っ青な顔してたからなぁ。何かあったのか?」
「ええとその。実は迷い猫を探してまして――」
その時、甲斐の耳にみゃあ、という声が届いた。
「今、鳴きましたよね?」
「鳴いてたな」
甲斐は工事の男から離れると、再び家の敷地に足を踏み入れた。あの鬼畜な売主の姿がいないか念入りに確認しながら声のする方へ向かう。鳴き声は何回かしたあとでぴたりと止まった。たどりついた所はやはり地下の換気口のあたりだ。
甲斐は持ってきた工具箱を地面に置いた。グレーチングの蓋を改めて見据え、つくりを確認する。だがボルトの位置も良く分からず、どうすれば外れるのかも分からない。甲斐が口をへの字にして考え込んでいると、
「ふーん。ここにその迷い猫がいるのか?」
気がつくと、工事現場の男が後ろにいた。顔に滴る汗をタオルで拭いながらグレーチングの下をのぞきこんでいる。
「こんな所に猫が迷ったら助けるのも骨折りだろうに。あ、あそこの窓から出られるじゃないか。この家の鍵借りて家の中に入るってのは?」
「それが、売主の人に連絡したらちょっと――」
「無理なのか?」
「せめてこの蓋が開けられればなんとかなるかと思ったんですけど」
「なら俺がその蓋はずしてやろうか?」
「え? できるんですか?」
「蓋開ける位ならなんてこたねぇよ。仕事でよくやってるし」
工事現場の男の言葉に甲斐はそういえば、と思い出す。歩道を作る時は道の脇にある側溝の整備も行われることが多い。つまり工事現場の男にとって側溝の蓋開けなどたわいもないことなのだ。
思いがけない幸運に甲斐の心は晴れやかになる。早速彼にお願いすると、持ってきた工具を渡した。
「ああ、兄ちゃんの持ってる家庭用の工具じゃ使いづらいんだ。俺の道具持って来るから待っててな」
そう言って工事現場の男は一分もたたないうちに、長いスパナと太い針金二本を持って戻ってきた。
「外すのは一枚分でいいかな」
そう言って男性は一番隅にある蓋に手をつける。ボルトが締まっている部分にスパナを当て力を込めて捻ると、軋む音とともに部品が動きだす。ネジの緩みを感じとった男はそのあと小気味よくスパナを回した。あっという間にボルトを外すと、今度はフックのついた太い針金を両手に持つ。カギの部分をグレーチングの升目に引っかけ上に持ち上げると、金属の重々しい音とともに蓋が開いた。
蓋の下に広がる世界を覗いた甲斐はごくりと唾をのみこむ。すぐ下に錆びた鉄の梯子があったので、甲斐はそれを伝って降りた。地面に足がついた所で一度マスクを外す。土と埃とほんの少しのアルコールが鼻腔をくすぐる。
甲斐が降り立った小さな空間は部屋の換気と、地下室の湿気防止のために設けられた、いわゆるドライエリアと呼ばれる場所だった。そこは人が二人ギリギリ入れるかどうかの幅で、高さも甲斐の背より少し高いくらいだ。
甲斐は四つん這いになりゆっくり進む。薄暗い中を進んでいくと先ほど見つけた小さな窓の近くで柔らかい「何か」にぶつかった。よく見ればくすんだ色の毛玉が地面に転がっている。小さな三角の耳が二つあるのを見つけ甲斐は安堵した。壊れ物を扱うように、両手で丁寧に持ち上げる。だが――
甲斐は首をかしげた。持っている腹の部分が非常に固い。それに、動物の体温も獣らしき独特の臭いもしない。甲斐は猫の体をくるりとひっくり返す。小さな腹が出てくるかと思われたはずの場所にあったのは携帯電話ではないか。
「何だこれ!」
甲斐は思わず叫んだ。声を聞きつけた工事現場の男が上から、どうした? と聞いてくる。
「猫がみつかったのか?」
「いや、それがその……」
何ともいえぬ気持ちで地上に戻った甲斐は自分の戦利品を見せる。地下の空洞から出てきたものに工事現場の男も呆れていたが、まぁ、猫の死体じゃなくよかったじゃないかと笑った。
「せっかく手伝って頂いたのに――なんだか申し訳ないです」
「別にいいってことよ。それにしても良くできてるなぁ。最近はこんなのが流行りなのかねぇ」
携帯にひっついた猫のぬいぐるみを見ながら工事現場の男は言う。まるで大事な物を抱きしめるように存在するそれはおそらく携帯のカバーの一種なのだろう。そして電話かメールの着信音もそれに合わせて猫の声にしたのだろう。種を明かせば何てことない話だ。それでも、楓の気がかりが減っただけでも探しがいはあったと言えよう。
甲斐はその手伝いをしてくれた工事現場の男に改めてお礼を言う。
「この携帯は明日、仕事ついでに拾得物の届け出しときますね」
「そうか。でも昼休みとかに交番行ったりするのは面倒だろう?」
「そんなことないですよ」
僕、こっちが本職ですし――と甲斐は言おうとして、はっとする。工事の男がおもむろに携帯を操作し始めたのだ。
「ちょ、何してるんですか」
「何って。持ち主に連絡いれるんだよ。電話帳とかに家族の携帯番号とか登録してるだろ? こういうのは早く知らせないと向こうも困っているだろうし、直接連絡した方が手間も省けるって」
「いや、それはこっちが困るんですって」
甲斐は思わず声を上げた。甲斐が慌てたのにはちゃんと理由がある。携帯を拾った場合、拾得者はもちろん、警察も携帯の内容を見ることは基本禁じられているのだ。このままだと警察は持ち主が現れるのをただ待っていると思われるかもしれないが、決してそういうわけではない。警察は機械に内臓されているチップの番号を携帯会社に伝えることになっている。そして情報を受け取った携帯会社はチップから携帯番号を調べ持ち主に連絡し警察に取りに行くよう促すのである。
だから工事の男がとった行動は有難迷惑なのである。気持ちは分かるがそれはプライバシーの侵害にあたり、トラブルの元になりかねない。
甲斐はたどたどしい言葉で工事現場の男に説明した。
「そういうわけで、とにかく携帯動かすの止めてもらえますか?」
「そういうことなら分かったけど――でも」
「でも?」
「もう電話かけちゃって、相手出てるんだけど」
「えぇー」
どうやらこの携帯の持ち主はロックもかけてなかったらしい。
どうする? と工事の男に言われ甲斐は頭を悩ませた。でも相手が出てしまった以上、勝手に通話を切ったらこちらが怪しまれてしまう。甲斐は渋々ながら携帯の向こうにいる相手に声をかけた。
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工事中の音を背景に甲斐はゆっくりとした足取りで玄関にたどりつく。玄関の扉には空家を示す張り紙がべったりと貼られていた。さっきは遠目だったので売家の文字しか見えなかったが、よくよく見れば隅っこに売主の名前と連絡先が記されている。甲斐は自分の携帯をポケットから取り出すと書かれてあった番号に電話をかけた。呼び出し音が数コール鳴った後、音が突然切れる。耳に届いたのは男性の声だった。
「誰?」
その、あからさまに不機嫌な声に甲斐はどきりとする。声が裏返った。
「ぁっ、あの、長島さんの携帯電話でしょうか?」
「だったら何?」
「○○町の売家の張り紙見て電話をしたんですけど」
「なに? あのボロ家買ってくれるわけ?」
「その、僕はこの家を買いたいとかなじゃくて」
「はぁあ?」
ふざけんなてめぇ、と怒鳴られ、甲斐は思わず肩をすくめた。
「ったく、イタズラかよ。思わせぶりなことすんな! 冗談じゃねえ」
男が受話器の向こうで舌打ちする。このままだと電話を切られそうな気がして甲斐は焦った。待って下さい、と声を上げる。
「ええと、こちらに電話したのはその、お宅の敷地に子猫が迷いこんでしまったみたいで――地下の換気口付近にいるかもしれないんです。助けたいので一度家の中に入らせてほしくて」
「何で他人のてめぇに俺の家の中みせなきゃならねーんだよ」
「だから、猫が閉じ込められたかもしれなくて。それを確認したいんです。その為には地下の窓から側溝の下に出ないといけなくて――こちらの家の鍵が必要なんです。鍵をお借りしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「冗談じゃねえぞ。この家は俺のものだ。勝手なことするんじゃねえ!」
咄嗟とはいえ、男の口からでた言葉に甲斐は唖然とした。は? と間抜けな声を上げてしまう。
「あのー、この家って売りに出しているんじゃ」
「誰が売るっていった? 住んでいる奴がいるのに売るなんてありえねーだろうが」
「そう、なんですか?」
「当然だろ!」
最初と間逆の言葉に甲斐は首を横にかしげた。最初は自分の失言を繕うための虚勢かと思ったが、男にはそういったうろたえがない。むしろ真剣に訴えているのだ。
男の言っていることが分からない――甲斐が返事に困っていると、どうやらそれが向こうに伝わってしまったらしい。
「てめぇ何だ? 俺の事馬鹿にしてんのか? いい度胸じゃねえか そのへらへらした頭、斧でぶったぎってやろうか? 物置から今取ってくるから。お前をぶっ殺してやるから。首洗って待ってろ、いいな。ここにある包丁でぶっ殺してやる!」
男の息まく声のあと、通話は突然切れた。甲斐の背中に嫌な汗が伝う。今日は真夏日だというのに寒気が一気に襲いかかる。しばらく固まっていると、ワンちゃん、と呼ばれた。ぎこちなく首をそちらに向けると、裏から追いかけてきた楓がきょとんとした顔でこちらを見ていた。
「どーしたの? 何かあった?」
そのあどけない微笑みを見た瞬間、甲斐は現実に引き戻される。甲斐は手持ちのハンカチで汗をぬぐった。蒸れたマスクの中も丁寧に拭くが、その時になって自分の歯がガチガチと音を立てていたことに甲斐は今更ながら気づいた。
男の言葉は支離滅裂で意味不明だ。もしかしたらこの暑さで理性を失ったのかもしれない。あるいは昼間から酒をあおって酔っ払っていたのだろうか。
あからさまな悪意に甲斐の気が滅入ったのは言うまでもない。こんなことになるなら、最初に隣りの家の人間に相手の人となりを聞いておくべきだったと後悔する。
男は正気とは言えなかった。暴言どおりに行動するかは分からない。でも、万が一男がここに来るようなことがあったら――甲斐は唇をぎゅっと噛みしめた。自分はともかく、楓を危険な目に合わせることはできない。
甲斐は楓を呼び寄せると、自分の背中に乗るよう促した。
「ワンちゃんどうしたの? ねこちゃんは? 助けないの?」
「この続きは……またあとでね。ひとまずお家に帰ろう。外は暑いし、長くいると熱中症になるでしょ。そしたら大家さんも心配するから。そうだ。途中でアイスでも買っていこうか? ね?」
甲斐は適当な理由をつけて楓を黙らせる。小さな体を背に背負うとすぐにその場を離れた。楓を背負っているため、帰りは表から出る。工事の人間の驚きの目をよそに砂利道を横切り、もときた道を一目散に走る。マスクから漏れる熱気が鼻をくすぐるが、今はそれを払う余裕もなかった。