2013
白鳥の経営する音楽事務所は店から二本ほど通りを挟んだ先のビルにあった。
「あの、社長の白鳥さんはいらっしゃいますでしょうか?」
入口の受付であいりが尋ねる。対応した女性は突然現れた男とも女とも判断しづらい巨人に口をあんぐりとさせた。
「あ、っ、ポイントメントは取りましたでしょうか?」
言葉に詰まる受付嬢にあいりはいいえ、と自嘲じみた笑いを浮かべる。事前に話したら拒否されると思ったため、わざとしなかった。あいりは白鳥を試すかのようにこんな言葉を添えた。
「緊急の用件なので約束はしてません。白鳥さんに安芸翠さんの件で、大事な話があると伝えて頂きたいんですけど」
「少々お待ち下さい」
受付の女性は電話の受話器を取ると、内線でその旨を伝える。あいりたちは白鳥の反応を静かに待った。電話で幾つかの会話がやりとりされたあと、彼女が分かりました、と答える。受話器を下ろし、あいりを見上げた。
「五分でよければ話を伺うとのことです。こちらへどうぞ」
女性の案内され、あいりたちは事務所の中へと足を踏み入れる。普通の会社と変わらない、事務机が幾つか置かれたフロアの中で一番目を引いたのは、壁一面に描かれた巨大ポスターだ。
「光と影」というタイトルのそれは最初、白から始まり水色青紺といった青のグラデーションを通過する。フロアの奥に進むとそれは更に色を濃くし、最終的に宵闇の色へと行き着く。中央に描かれた少女はピカソにも似た面立ちで、比較的明るい色側の左半分は笑顔を見せ、暗い左半分は叫びにも似た泣き顔を見せている。そして少女の傍らに絵の具で描いたtooyaの文字があった。
この芸術色が突出した絵画はtooyaの新しいアルバムの宣伝ポスターらしい。ただのポスターなのに、命を削る様な色彩とタッチにあいりは圧倒された。
案内された応接室はフロアの一部をパテーションで区切っただけの簡単なものだった。スタッキングチェアに座るよう促されたあいりは衣咲を奥の席に座らせる。手前の席にあいりが腰を下ろすと、女性がテーブルの上にあるプレーヤーに手を触れた。小さなモニターから映像が流れ始める。それはtooyaの新しいアルバムの宣伝を兼ねたインタビューだった。
のっけからアナウンサーは興奮気味な口調でこれがどれだけ凄い事かを語り始める。話によるとtooyaはこれまでインタビューやテレビ出演はNGという鉄壁があったそうだ。でも今回は特別に許可を頂いたらしい。
最初、tooyaがそこまでしてメディアの露出を拒んだのがあいりには不思議で仕方なかったが、その理由は映像を見てすぐに分かった。tooyaは極度の人見知りで、握手するだけでも手を震わせていたのだ。インタビューの間も相手と目を合わせようとしない。なのでアナウンサーはtooyaさんはシャイだの、繊細な心の持ち主だのとフォローを入れるのに必死だ。あいりは愛想も何もない映像に苦笑した。こんなんで番組として成り立つのかなと思う。そんな時、お待たせして申し訳ありません、と声をかけられた。あいりはモニターから目を離す。目の前に恰幅の良い男性が立っていた。あいりが一度立ち上がると、男性はその背の高さに圧倒されてしまう。
「ええ、っと。お待たせして申し訳ありません」
「こちらこそ、お忙しい中時間を割いて頂きありがとうございます」
「その、アキさんについてお話があるとか?」
「はい」
あいりは自分の名を名乗ると、再び椅子に座る。早速本題に入った。
「実はアキさんと連絡が取れなくて困っているんです。それであるお店の方から貴方なら知っているんじゃないかと伺いまして。白鳥さんはアキさんとお知り合いだそうですね」
「ええ。彼女のことは気にかけておりますよ」
「では、アキさんとは仲がよかったと」
「そうですね。恋人とも違いますが――彼女は年下の友達であり。娘のような存在で」
「嘘」
突然衣咲が口をはさんだ。鋭い目を白鳥に向ける。
「私、知ってるんだから。一週間前にアキちゃんと店で揉めたって。アキちゃん『話が違うって』怒ってたって! あんたが何かしたんじゃないの?」
衣咲のその、挑発とも呼べる発言に白鳥は目を丸くする。あいりは心の中で舌打ちすると、衣咲の口を自分の手で覆った。
「ああ、申し訳ありません。この子口が悪くて」
「おねーさまったらひどいっ。だって本当のことじゃないですかっ」
「だからってあからさまに言うことはないでしょう」
あいりは衣咲をたしなめたあと、白鳥に向かってすみません、ともう一度頭を下げる。すると白鳥は静かに微笑んだ。
「いえいえ。私の方こそ隠そうとして申し訳ない。あの時のことは思い出すだけでも恥ずかしくて――あの時は私もついカッとなって大人げない行動に出てしまいました。店長には本当、申し訳ないことをしたと思ってます」
「じゃあ、アキさんと揉めたのは事実なんですね」
「ええ。でもあれは彼女の誤解なんですよ」
「といいますと?」
「アキさんがお店で弾き語りをしていたのは知ってますよね。実は、私はアキさんの才能を買っていまして、一度うちの事務所に来ないかと声をかけていたんです。
ただ、その話をした時に少々行き違いがあったみたいで――彼女はずっとソロでやっていきたかったみたいなんですよ。でも私は、これから作るバンドメンバーの一人として声をかけたわけで――それで『話が違う』と。全ては彼女の勘違いなんですよ」
白鳥の言葉にあいりはそうなんですか、と相づちを打つ。白鳥が喋っている間、あいりは白鳥の顔色をずっと見ていた。その言葉に嘘がないか見極めるためだ。でも彼の口調は終始朗らかで繕ったような様子は見受けられない。感情の浮き沈みすらなかった。正直にいえば白か黒かの判断は難しい。
なので、あいりは話題を変えることにした。
「あともうひとつ伺いたいのですけど。白鳥さんはアキさんをtooyaさんに会わせたことはありますか?」
「一度もありませんが。どうしてですか?」
「彼女、tooyaさんに憧れて上京したと聞いたので。もしかしたら白鳥さんの方で引きあわせたのではないかと思いまして」
「そうですか。でも、その話を聞いていたとしてもtooyaに引きあわせることはなかったかと思います」
そして白鳥は流しっぱなしのDVDに目をむけた。
「こちらを見ましたよね? この映像にもあるとおり、tooyaは極度の人見知り――というより人嫌いでして、外に出るのもままならない。だからレコーディングも一苦労で。無理やり連れて行くんです」
白鳥はそう言うと自分の腕時計を見る。そろそろ出掛けなければならないので、と一言述べて席を立った。
「何だかお役に立てなかったようで申し訳ないですね」
「いえ」
「もし、彼女が見つかったら私が心配してたと伝えてもらえませんか?」
「わかりました。では失礼します」
あいりは衣咲を連れ、白鳥の事務所をあとにする。外に出ると、衣咲の口から小さなため息が漏れた。
「ここで手詰まりになってしまいましたね。あの白鳥ってオヤジが一番怪しいと思ったのに――」
落胆する衣咲にそうね、とあいりは頷く。あいり自身も白鳥が何かを知っているのではないかと思っていた。だが白鳥の喋りは流暢だったし、うろたえたり感情的になる所はなかった。白鳥の言葉に嘘はなかったのだろう。
その一方であいりは引っかかりのようなものを感じていた。それがどこだったのか、何なのかはっきりしない。でも何かがすっきりしないのだ。
あいりの中で悶々とした状態が続く。するとあいりの携帯が鳴った。相手はさっき登録したばかりの番号――アキからだ。突然の急展開にあいりは唾を飲み込む。相手の番号をもう一度確認してから慎重に通話ボタンをはじいた。
2013
甲斐の先輩と名乗る男の発言に店長は戸惑いを隠せないようだ。グラスに残る酒をあおりながら、男は言葉を重ねる。
「もしかして、個人情報漏えいを心配してるの? そんなに俺のこと信用できない? これって職権乱用?」
「いえ、そんなことは――」
「大丈夫。こっちの彼女は俺の同業だし、悪用することは絶対ない」
だよね、と話題を振られたので、あいりは小さく頷いた。
「あの、本当に連絡先を知るだけでいいんです。用が終わったらすぐに破棄しますから」
店長は少しの間悩んだあとで、あいりと男を交互に見る。ひとつ唸った後、まぁ中上さんがそこまで言うなら、と了承してくれた。
「ちょっと待って。事務所から履歴書とファイル取ってくるから」
しばらくして、あいりは店長から履歴書と一冊のファイルを渡される。先に履歴書に目を通しそこであいりたちは、皆が呼んでいた彼女の名が苗字だったということを知った。本名は安芸翠(みどり)。実家は埼玉で、年は二十になったばかりだ。連絡先に携帯の番号が書かれていたので、一度電話をかけてみたが、数コールのあとで留守番電話に繋がってしまった。
一方、アキと揉めた客は白鳥という男だった。渡された会員名簿の職業欄には音楽事務所経営と書いてある。店長によると白鳥は元々大手のレコード会社に勤めていたのだが、数年前に独立、事務所を立ち上げたとの事だ。
最初はインディーズバンドを主に手がけていたらしいが、一昨年、所属していたピアニストを当てたことから白鳥の羽振りはだいぶ良くなったらしい。
今店にかかっているインストゥエンタルが、そのアーティストが演奏している曲なのだと店長が言うと、衣咲がえっ、と驚くような声をあげた。
「今かかってるの『tooya(とおや)』の曲ですよね? もしかしてその白鳥って人が彼をデビューさせたんですか?」
「衣咲、知ってるの?」
「知ってるも何も。この曲車のCMに使われて話題になったじゃないですか。それに、tooyaはアキちゃんの憧れの人です。この人に憧れて上京したって言ってましたもん」
衣咲の興奮顔にあいりはなるほど、と頷く。泡の消えたビールに一度口をつけると、頭の中で事実と想像を絡めていく。
アキはこの店でピアノを弾いていた所を白鳥に目をつけられ、声をかけられた。それが憧れの人を手掛けた人物だと分かったら、アキも相当舞い上がったことだろう。もしかしたらデビューの話が来ていたかもしれないし、tooyaとも一度会っているかもしれない。想像がそこまで広がると、二人がもめた理由も気になる。白鳥には一度会ってみた方がいいだろう。
あいりは会員名簿に記された白鳥の住所を書き写すと感謝の言葉とともにそれらを返却した。口添えをしてくれた――中上にもありがとうございますと述べる。甲斐の知り合いともなれば、何かお礼をした方がいいかもしれない、そう思ったあいりは何か飲みます? と声をかけた。
「お礼にお酒をひとつ奢らせて下さい」
「別にいいよ。何ならその貸しは甲斐につけといてヤツが困ってる時に助けてやって」
そう言って中上は席を立った。座っている時は気づかなかったが、中上の足は相当長い。見降ろされたあいりは息をのんだ。自分よりも背の高い男はそうそう居ないだけに圧倒された。じゃあ俺、あっち行くから、と中上が言う。その指の先を追いかけると、そこには合コンにも似た風景が広がっていた。あいりたちがカウンターで話をしている間に客は増えていて、テーブル席はいつの間にか満席になっていた。
中上は二人組の女性がいるテーブル席に向かおうとして――立ち止まる。ああそうだと言葉を漏らし、あいりに近づいた。少し体をかがめ、あいりに耳打ちする。
「この先俺と何度か関わるかもしれないけど、その時は俺のこと恨まないでね」
「は?」
「じゃ。探してる子がみつかるといいね」
あいりの前にあった大きな影は小さな風とともに引いて行った。その背中を見送りながら、あいりは眉をひそめる。今の言葉はどういう意味だろう、と必死に考える。
「おねーさまっ!」
しばらくの間ぼおっとしていると衣咲がにょきっと現れた。顔が非常に近い。急に視界を阻まれたあいりは呪いにも近い視線にうわぁ、と声をあげ一歩後退する。
「もう! 何度も呼んだのに。何でこっちを向いてくれないんですかっ。まさか、あの男に惚れたとかないですよね?」
「は?」
「だって、あの男の背中を名残惜しそうに見てたじゃないですかっ」
嫉妬の眼を向ける衣咲にあいりははぁ? と声をあげた。
「そんなの許しませんよ。あいりおねーさまは私のモノなんですから。もうここに居る必要はないですよねっ。次いきますよっ! 次っ」
強制的に腕を絡められたあいりはぼおっとしていた理由を話す間も与えられなかった。ずるずると引きずられ、店の外へ連れ出される。扉の外に出た瞬間熱気が襲った。
外はまだ明るかったが、店の前を通る人達は増えていた。ある店の前ではYシャツを着崩したサラリーマンが店の呼び子に誘われている。その隣では同伴出勤と思われる男女が。通りを歩く人達の中には、いちもつを抱えて居そうな顔がちらほら伺えた。繁華街の長い夜が始まろうとしている。このぶんだと今夜は熱帯夜になりそうだ。
あいりは次の目的地に向かって歩き出した。途中スーツの上着を脱ぎ、ネクタイを少しだけ緩めた。隙間に風を取りこむ。その横で衣咲が携帯のシャッターを切ったのは言うまでもない。
2013
大家の孫娘が帰ってくるまで時間が合ったので、甲斐は一旦アパートの部屋に戻った。たまった洗濯物を洗濯機に入れスイッチを押す。洗濯機が回っている間に狭い部屋を片づけ簡単に掃除する。洗濯を干し、余った時間は携帯ゲームに費やした。
やがて時計は正午を知らせる。甲斐が再び大家の家を訪れると、茶の間に保育園のスモッグを着た女の子がいた。数年前までは大家の背中で眠っている姿を見ていたと思ったのに――気づけば今は保育園の年中さんだ。
「ほら楓。いぬのおまわりさんが来てくれたよ」
大家の言葉に長い髪を二つに縛った女の子――楓は目を丸くした。
「ワンコさんが子ねこちゃん、さがしてくれるの?」
「そうだよ。でもその前に着替えてごはん食べちゃおうねぇ」
そう言って大家は台所へ向かう。あらかじめ作っておいたピラフとスープを電子レンジで温め、器に盛って茶の間へ戻ってきた。大家が用意してくれた昼食を甲斐も御馳走になったあと、楓とともに外へと繰り出した。
水色のワンピースを着、麦わら帽子を被った女の子が小走りで先を行く。それを楓ちゃん待ってと言いながらマスク姿の男が追う。周りから見たら子供を追いかける変質者にしか見えない。でも、ここでマスクを外すわけにもいかない。
嗅覚が人より敏感な甲斐にとってマスクは必需品だった。マスクをしていればある程度の臭いを消すことができるし、不快な香りに酔うこともない。ただ、この季節は汗で蒸れるので、甲斐は時々マスクに手を入れ風を取りこんだ。
子供の足に合わせて歩くこと十分、楓の足が一旦止まる。目の前に広がるのは工事中の看板だ。道路に歩道を作る工事をしているらしい。機械で石を切る音や砂利を敷き詰める音が耳をつんざく。楓の目は工事の機械の奥にある一軒家に傾けられていた。可も不可もない、どこにでもありそうな二階建ての門扉には「売地」のポスターが貼られている。どうやらそこが目的地らしい。家の前の道は塞がれていて正面からは入れなさそうだ。
楓は体を左に九十度傾けるとこっち、と甲斐を促した。楓は門扉から続く家のブロック塀を手のひらでなぞりながら歩く。すると、この家の思わぬ侵入口を見つけた。それは隣家との境界線、家を囲う塀がフェンスからブロックに切り替わる所だ。幅三〇センチほどの隙間を楓は難なく抜けると民家の庭へ忍び込んだ。予告なしの行動に甲斐は焦る。人が住んでいないとはいえ、警察関係の人間が不法侵入するのは気が引ける。
甲斐はまわりの目がないことを確認した。持っていた水筒をかなぐり捨てて、隙間の中へ慎重に体を入れる。子供は楽々かもしれないが、大人にこの幅はきわどいものがある。引っかかりそうな所は体をひねることで回避し、なんとか塀の向こう側へたどりつくことができた。甲斐は一旦外した水筒を肩にかけなおし、楓を追う。
だいぶ長い間放置されていたのか、庭は荒れていた。庭は雑草に覆われているし、植え木も伸び放題。固い地面では大きな蟻が餌を求め彷徨っている。時々訳の分からない虫が甲斐の前を飛び跳ねた。ワンちゃんこっち、と楓の声がする。楓は建物のすぐそばの側溝の前にいた。楓はその場にしゃがみこむと側溝を指す。
「あのね。ここから声が聞こえたの。ワンちゃん、子ねこさんをたすけてあげて」
甲斐は言われた場所に耳を傾けた。だが、表の工事の音が五月蠅くて室内の音すら聞こえない。グレーチングに顔を寄せ、奥を覗くと、建物の壁に沿って小さな窓があるのが確認できた。どうやらこれは地下室の換気口のようだ。
周りの様子を確認した甲斐はひとつ唸り声を上げる。子供の言葉を最初は軽く流そうとしたけど、このままでは無下にできない。この条件なら何かの拍子に子猫が落ちた可能性もあるからだ。
甲斐は口元のマスクを取ると側溝に鼻を近づけた。端から端まで念入りに臭いを嗅ぐ。土や草の臭いに交じって、アルコールのような香りを感じたが、動物の腐臭らしきものは感じられない。幸いここは売地らしく、そうそう人も来ない。死体がないのは幸いだった、と甲斐は思った。これなら大丈夫かもしれない。
甲斐は側溝を塞ぐグレーチングに手をかけた。重い蓋をめいっぱいの力で持ち上げようとする。だがグレーチングはボルトで固定されていて、専用の工具でないと外せなさそうだ。甲斐は申し訳なさそうに楓に言った。
「楓ちゃん、ここからは猫を助けることはできないよ」
「なんで?」
「ネジがはずれなくて、この家の中に入れなくて」
「どういうこと?」
「ええと……」
甲斐は言葉に詰まった。こう言う時、説明下手な自分は損だなと思う。例え自分の頭の中で理解できても、周りに問い詰められるとその雰囲気に気押されてパニックになってしまうのだ。
こんな時、甲斐はあいりの言葉を思い出す。ある事件の捜査に関わった時、いつものようにパニックになった甲斐をあいりはこう諭した。まずは目の前の問題をひとつ言葉にすること。その問題は何故起きたのかを考え話すこと。そしてどうすればそれが解決するのか(自分にできるのか)を正直に伝えること。あいりから示されたのは目から鱗の解決方法だった。
甲斐は一度深呼吸する。周りにある全ての臭いをとりこむと、膝を抱える楓に目線を合わせた。
「あのね。この蓋にはネジがついているんだ。で、そのネジは専用の工具じゃないと外せない。僕の力だけでは蓋を外すことができないんだ」
「じゃあ、ねこちゃん助けられないの?」
今にも泣きそうな楓に甲斐はいいや、と首を横に振った。
「この中をのぞいてごらん。窓があるの、わかる? あれはこの家に地下室があるってことなんだ。だから、家の中に入って、地下室からあの窓を使って下りれば猫の居る場所にたどりつけるかもしれない」
「ワンちゃんやって! ねこちゃん助けて」
楓の願いに甲斐は頷く。予想以上に厄介なことになってしまったけど、このまま引き下がるのは気が引ける。だから甲斐は腹をくくった。
この家の中に入るには売主に事情を話して、鍵を借りる必要がある。売主の情報は表の玄関に行けば表札か何かあるかもしれない。なければ隣の家に連絡先を聞くか、付近の不動産を当たるまでだ。
甲斐はすっくと立ち上がると、家の表側に回った。
2013
衣咲の話によると、これから訪れる店は夕方五時から開くとのことだった。それまでの間、あいり達は買い物で暇をつぶすことにする。嫌がるあいりを引きずり衣咲が訪れたのは彼女いきつけのお店だった。
店に放り込まれ、身ぐるみ剥がされたあいりはハンガーにかかっていた服を片っぱしから着せられた。逃げようものなら店員が三人がかりであいりを抑える。結局あいりは真夏の太陽が傾くまで着せ替え人形をさせられる羽目になったのである。
「本当、おねーさまって何でも似合うんですねぇ。これなんか素敵。もう最高」
サカエ界隈までの道の途中、携帯の画面を見ながら衣咲ははふぅん、とため息を漏らす。あいりがいろんな服を試すたびに携帯のカメラで撮っていた衣咲は新たなコレクションが増えてとても嬉しそうだ。
あいりはいーさーきーぃ、と恨めしそうな声を上げる。
「その店に入るのにこんな準備必要なわけ?」
「だって、シングルズバーなんて、私にとって未知の世界なんですから。ちょっとはお洒落しなきゃあ」
「だからって、私もスーツでキメなくても……」
「さっきのおねーさまの格好じゃドレスコードに引っかかってお店に入ることもできません。それに、おねーさまには衣咲をエスコートしてもらう義務があるんですっ」
衣咲の言葉には前半説得力があったが、後半は意味不明だ。シングルズバーというのは男女の出会いを楽しむ場ではなかったのか?
しばらく歩いて行くと、繁華街のアーチが見えてくる。そこをくぐれはサカエ町だ。目的の店、シークレットベースは大通りから一本離れた道沿いに店を構えていた。
案内人は長身のあいりを見て一瞬体を引く。でもすぐに会員の方でしょうか?と聞いてきた。とっさに衣咲が答える。
「こちらの会員ではないのですが、お店に入ることはできますか?」
「会員ではないお客様も夜九時まででしたら席をご案内することができますが」
「じゃあそれでお願いします」
余裕たっぷりの口ぶりで衣咲が頼むと、案内人はあいりたちを店の奥へと案内した。
店内を巡るのはジャズの調べ。小さな舞台にあるグランドピアノは酒を楽しむ人の傍らに寄り添って、その出番を待っていた。決して広い店内ではないが丸みを帯びたテーブルや椅子が茶系で統一されていてとても落ちついた雰囲気だ。照明も洒落ている。
最初はテーブル席に連れて来られたが、私達は店員との距離が近いカウンター席を希望した。丁寧に案内され席に着く。開店してそんなに時間がたってないせいか、客足は少ない。あいりと衣咲の他は奥のソファー席に男女二組のカップルとカウンターに男が一人いるだけだ。
「どのお酒を飲まれますか?」
バーテンダーに促され、私達はメニューを手にする。すると衣咲が酒に手を出そうとしたので、私はメニューを取りあげてビールとウーロン茶を注文した。
バーテンダーとは別に中年の男性が声をかけてきた。
「本日は当店にご来店頂きありがとうございます」
その口ぶりからして、目の前の人物がこの店の主だとすぐに分かった。お二方はこのお店に来るのは初めてだと聞きましたが? そう問われ、衣咲がええ、と頷く。
「実は私達、ピアノ弾きのアキ――さんという方を探しているんです。今度こちらの店でピアノの弾き語りをすると聞いて来ました。今日は出勤していますか?」
「――あんたら、アキの友達か?」
突然店長の口ぶりが変わる。そのドスの効いた声に衣咲がひるんだ。店長は店を訪れた理由が気に食わなかったのだろうか? そう思い、あいりがすかさずフォローを入れた。
「その、彼女とは友達と言うか、知り合いのようなものでして――」
「アキならここには来ない。この間客に暴力をふるったから出入禁止にしたんだ」
「嘘だ。アキちゃんがそんなこと――」
「あの、よかったら詳しい話を聞かせてもらえませんか?」
店長の話によると、彼女は一週間前にピアノを弾きに現れたという。でも演奏を途中で止めてしまうと、ある客に話が違うと怒鳴ってつかみかかった。彼女は側にあった酒をグラスごと投げつけ、店をめちゃくちゃにしたらしい。客は彼女の行動に怒り、その場で会員退会の手続きをしたのだという。
相手の客はこの店の常連で、気前よくこの店にお金を落としていった――いわゆるVIPだった。その人物は彼女の弾くピアノを心酔していて、彼女もそれを聞いて最初は喜んでいたそうだ。温厚な関係が続くと思われた二人の関係だが、何故こうなったかは店長自身も分からないらしい。もちろん、彼女が何処に居るのかも分からないし、匿ってもいないそうだ。
ひととおりの話を聞いたあいりは駄目元で本題を切り出した。
「あの、アキさんの連絡先って分かりますか? 最近顔を見なくなって私達も心配しているんです。それと、アキさんともめたっていう客の名前とか住所とか分かると助かるんですけど……退会したってことは以前ここの会員だった方ですよね?」
「そうだけど。でも個人情報だから教えるわけにはいかないよ」
「――ですよね」
あいりは予想していた切り返しに嘆息する。今日は非番だ。ここで身分を明かして情報提示を迫ったら職権乱用になってしまう。さてどうしたものか。
どう返事しようか迷っていると、時間だけがあっという間に過ぎて行く。やがて店長がしびれを切らした。
「アキを探しに来ただけなら帰ってくれないか? こっちはあの子のせいで常連客を失った。正直その話をするだけで気が滅入るし腹が立つんだ。それに――」
店長は視線をあいりから逸らすと、衣咲を睨んだ。
「あんた。服や化粧でごまかしてるけど未成年だろ? ここは子供の来る所じゃない。さっさと帰れ!」
厳しい言葉に衣咲は体を強張らせる。何か言いたげだったが、あいりはそれをやんわりと諭した。
「もう帰ろう」
「でもぉ」
「最初に言ったでしょ。店の中を覗くだけだって。本人がいないならここにいる理由はない。それに」
店長は荒っぽい喋り方をするけど、話の筋は通っているしオトナとコドモの境界線をきちんと引いている。怪しげな店が展開している中、店長はこの界隈では珍しい、良心のある人だとあいりは評価した。詳しい内容を聞きたいのは山々だけど――あいりは後ろ髪を引かれながらも店長の言葉に従うことにした。
「そちらの気分を害してしまったなら申し訳ありません。でも、私達もアキさんの行方を探していて――心配しているんです。もしアキさんがこちらを訪れるようなことがありましたら、連絡を下さい」
あいりはカウンターにあったナプキンを一枚抜きとると、衣咲の持っていたペンで携帯番号を書く。自分の名を添え店長に渡そうとした――その時だ。
「君、もしかして瀬田あいりさん?」
カウンターで飲んでいた男に突然話しかけられ、あいりは息を呑む。年はあいりよりも少し上だろうか。あいりは当然、見覚えがない。なのに何故名前を知っているんだ? あいりが豆鉄砲を食らったような顔をしていると男はやっぱり、と呟く。
「前に見た写真そのまんまだ。でも本物の方が凛々しい顔をしている」
「あの、どなたでしょうか?」
「瀬田さんの噂はこっちでも絶えないからね。甲斐は元気にやってる?」
そう言って男はにやりと笑う。知っているものの名を聞いた瞬間、少しだけあいりの緊張が緩んだ。
「甲斐くんの知り合い――なんですか?」
「そう。あいつの二年先輩」
男の返事にあいりはへぇ、と感嘆の声を上げる。甲斐の先輩ということはこの人も警察事務官なのだろうか。
「今の話耳に入っちゃったんだけど――何? 人探ししているの」
「ええ、まぁ」
歯切れの悪い返事をする私に男は小さく唸ると、店長のいるカウンターへ向き直る。そして次の瞬間信じられない言葉を聞いた。
「店長ーこの人俺の知り合いだから客の情報教えてあげて。責任は俺が持つから」
2013
あいりが店でランチを楽しんでいる頃、甲斐は自分の住んでいるアパートの隣りにいた。如何にもな日本家屋の茶の間で小さなため息が広がる。
事の発端は十分前のこと。
甲斐が布団の中で夢の世界に漬かっていると、インターホンが一回鳴った。平日のこの時間、友人も知り合いも仕事に追われているため、甲斐の部屋を訪れる人間はほとんどいない。だから甲斐も宅配か何かの勧誘だと思い居留守を使った。宅配なら再配達できるし、勧誘は門前払いで結構。せっかくの休日をつまらないことで費やしたくない。布団をかぶって無視していると連打のごとくピンポンを鳴らしてくる。
ずいぶんしつこいな、甲斐は枕元に置いてあった耳栓を使って音を封じた。扉の向こうで何か叫んでいた気がするが、徹底的に無視した。やがて、扉の周りが静かになる。そして甲斐が再びまどろみの世界へ足を突っ込みかけた頃――机に置いた携帯が盛大に震えた。発信者がこの家の大家だと知り、甲斐は全てを悟る。
「隣りの大家ですけど、ちょっとウチへおいで。というか来なさい。今すぐに」
その、命令口調にも等しい物言いに甲斐の目がいっきに冴える。このアパートは甲斐が上京した時からかれこれ十年ほど住んでいるが、大家にはいつも頭が上がらない。お金がなかった苦学生の頃は家賃を滞納しても快く待ってくれたし、甲斐を家に呼んで食事を御馳走してくれたこともあった。そんな恩人と言うべき人を勧誘だ迷惑だと勘違いしたことは罪にも等しい。
「うわぁぁ! 今行きますすぐ行きますっ飛んで行きます」
焦った甲斐は大家に向かってそう叫ぶと服だけ着替え外に出た。鉄骨の階段を一気に駆け下りる。隣りにある立派な門扉の前で一度呼吸を整え、カメラ付きのインターホンを押した。かなり慌てていたので顔も洗っていない。マスクをつける余裕もなかった。だから今は鼻から沢山の情報が入ってくる。
大家の家は独特の臭いが籠っていた。玄関から入って最初に鼻についたのは線香の香りだ。それは大家が毎朝仏壇に手を合わせ、線香をあげているせいだろう。二年前に亡くなった大家の夫も気心の知れた良い人だった。
軋む廊下を歩き茶の間へといくと、今度は魚の臭いが届いた。隅っこには大根の瑞々しさと大豆の香ばしさが伺える。甲斐がこの家の朝食メニューを想像すると、起きぬけの腹がぐう、と音を立てた。そう言えばまだ何も食べていない。すると音を聞きつけた大家がすかさず茶受けのせんべいを差し出す。甲斐は砂糖醤油の甘い香りごとそれをほおばった。
「ふで、ふぉぐになぶのよおぶぇ?」
甲斐は固いせんべいを噛み砕きながら大家に訊いた。だが、食べながらの言葉は意味不明で宇宙語を話しているようにしか聞こえない。大家は何言ってるか分からないわよ、と言って入れたばかりのお茶を差し出した。甲斐がそれ一気に飲み干し、で? 僕に何の用ですか? と改めて問う。ようやく言葉を理解した女家主はちょっと困ったような顔をして実はね、と話し始めた。
「うちの孫がさぁ、三日前から近所で子猫が迷子になっているから助けてって言ってくるんだよ。でもどこを探してもその子猫どころか泣き声も聞こえなくて」
「はぁ」
「でね。もしかしたら飼い主や親猫が子猫見つけたんじゃないかなーって思って。孫にそう話してみたんだけど、孫はまだ猫の声が聞こえるっていうの。変でしょ?」
「そうですねぇ」
甲斐は相づちを打ちながら指に残ったざらめを舐める。
「私もこの年だし、今は孫に付き合うのもしんどくてねぇ。で、孫に言ったのよ。こうなったらいぬのおまわりさんに探してもらおうって」
「……はい?」
「つまりはそういうことだから、頼むわね」
「え? わ、はぁい?」
話の流れが読めない甲斐は思わず変な声を上げる。
大家の話をもう一度思い返した。重要なのはたぶん「いぬのおまわりさん」の所だろう。いぬのおまわりさん――言葉を一度口にした後、甲斐はあることを思い出した。それは大家の孫娘が自分をワンちゃんと呼んでいたことだ。その瞬間甲斐の目がぱっちりと開いた。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ大家さん。僕にその猫探せってことですか? 僕、犬でもおまわりさんでもないし」
「でも警察で働いているんだろう?」
「そうですけど。でも僕の仕事は事務で。というか、そう言う話は警察じゃなくてええと――」
「聞いたわよぉ。たまに捜査に借りだされているんだって?」
「げ。誰からそれを」
「あの背の高い刑事さん、すらっとしてかっこいいわよね。私がもう三十年若かったら口説き落としてたわぁ」
今年で還暦を迎えようとしている女主人はそう言って頬を赤く染めた。背の高い刑事と言う話で、甲斐の頭にすぐ浮かんだのは今春刑事課に配属になった瀬田あいりだ。
あいりという名の通り、彼女は女性である。だがあいりは男前ないでたちと度胸を持っていて、初対面の人間の大半はあいりを男と間違える。実際甲斐も初めてあいりに会った時はずいぶんでかい男だなぁと、彼女の上の部分だけを見て思ったものだ。
でもあいりは甲斐の住んでいる場所も知らないし、捜査情報を簡単に漏らすような人物じゃない。だとしたら、考えられる人物はあとひとりしかいない。
その人物は甲斐の高校時代の先輩でもあり、甲斐を捜査の前線へ放り投げた張本人だ。本店の管理官――中上は前科こそないが昔は相当やんちゃをして周りを困らせていて、甲斐も何度かとばっちりをくらった過去がある。
今も捜査の途中で冗談とも思えない暴走をするから正直ひやひやする。そして重大な情報をぽろっとこぼすから困る。全く余計なことを。甲斐はこっそり毒づいた。
悶々としている甲斐をよそに、大家は勝手に話を進めていく。
「今日は保育園が半日で終わるから。そしたら孫の話を聞いてやって。私、午後から友達と約束があるから。よろしくね」
にっこりと笑う大家に甲斐は苦笑で返した。今の言葉、裏を読めば孫のお守をしろと言っているように聞こえる。もしかしたら大家はそうしたくて甲斐を呼びつけたのかもしれない。猫探しというのは体のいい言い訳かなんかで――
大家の最終目的を知った甲斐はなんだろうな、と小さく呟き肩を落とした。