2013
大家の孫娘が帰ってくるまで時間が合ったので、甲斐は一旦アパートの部屋に戻った。たまった洗濯物を洗濯機に入れスイッチを押す。洗濯機が回っている間に狭い部屋を片づけ簡単に掃除する。洗濯を干し、余った時間は携帯ゲームに費やした。
やがて時計は正午を知らせる。甲斐が再び大家の家を訪れると、茶の間に保育園のスモッグを着た女の子がいた。数年前までは大家の背中で眠っている姿を見ていたと思ったのに――気づけば今は保育園の年中さんだ。
「ほら楓。いぬのおまわりさんが来てくれたよ」
大家の言葉に長い髪を二つに縛った女の子――楓は目を丸くした。
「ワンコさんが子ねこちゃん、さがしてくれるの?」
「そうだよ。でもその前に着替えてごはん食べちゃおうねぇ」
そう言って大家は台所へ向かう。あらかじめ作っておいたピラフとスープを電子レンジで温め、器に盛って茶の間へ戻ってきた。大家が用意してくれた昼食を甲斐も御馳走になったあと、楓とともに外へと繰り出した。
水色のワンピースを着、麦わら帽子を被った女の子が小走りで先を行く。それを楓ちゃん待ってと言いながらマスク姿の男が追う。周りから見たら子供を追いかける変質者にしか見えない。でも、ここでマスクを外すわけにもいかない。
嗅覚が人より敏感な甲斐にとってマスクは必需品だった。マスクをしていればある程度の臭いを消すことができるし、不快な香りに酔うこともない。ただ、この季節は汗で蒸れるので、甲斐は時々マスクに手を入れ風を取りこんだ。
子供の足に合わせて歩くこと十分、楓の足が一旦止まる。目の前に広がるのは工事中の看板だ。道路に歩道を作る工事をしているらしい。機械で石を切る音や砂利を敷き詰める音が耳をつんざく。楓の目は工事の機械の奥にある一軒家に傾けられていた。可も不可もない、どこにでもありそうな二階建ての門扉には「売地」のポスターが貼られている。どうやらそこが目的地らしい。家の前の道は塞がれていて正面からは入れなさそうだ。
楓は体を左に九十度傾けるとこっち、と甲斐を促した。楓は門扉から続く家のブロック塀を手のひらでなぞりながら歩く。すると、この家の思わぬ侵入口を見つけた。それは隣家との境界線、家を囲う塀がフェンスからブロックに切り替わる所だ。幅三〇センチほどの隙間を楓は難なく抜けると民家の庭へ忍び込んだ。予告なしの行動に甲斐は焦る。人が住んでいないとはいえ、警察関係の人間が不法侵入するのは気が引ける。
甲斐はまわりの目がないことを確認した。持っていた水筒をかなぐり捨てて、隙間の中へ慎重に体を入れる。子供は楽々かもしれないが、大人にこの幅はきわどいものがある。引っかかりそうな所は体をひねることで回避し、なんとか塀の向こう側へたどりつくことができた。甲斐は一旦外した水筒を肩にかけなおし、楓を追う。
だいぶ長い間放置されていたのか、庭は荒れていた。庭は雑草に覆われているし、植え木も伸び放題。固い地面では大きな蟻が餌を求め彷徨っている。時々訳の分からない虫が甲斐の前を飛び跳ねた。ワンちゃんこっち、と楓の声がする。楓は建物のすぐそばの側溝の前にいた。楓はその場にしゃがみこむと側溝を指す。
「あのね。ここから声が聞こえたの。ワンちゃん、子ねこさんをたすけてあげて」
甲斐は言われた場所に耳を傾けた。だが、表の工事の音が五月蠅くて室内の音すら聞こえない。グレーチングに顔を寄せ、奥を覗くと、建物の壁に沿って小さな窓があるのが確認できた。どうやらこれは地下室の換気口のようだ。
周りの様子を確認した甲斐はひとつ唸り声を上げる。子供の言葉を最初は軽く流そうとしたけど、このままでは無下にできない。この条件なら何かの拍子に子猫が落ちた可能性もあるからだ。
甲斐は口元のマスクを取ると側溝に鼻を近づけた。端から端まで念入りに臭いを嗅ぐ。土や草の臭いに交じって、アルコールのような香りを感じたが、動物の腐臭らしきものは感じられない。幸いここは売地らしく、そうそう人も来ない。死体がないのは幸いだった、と甲斐は思った。これなら大丈夫かもしれない。
甲斐は側溝を塞ぐグレーチングに手をかけた。重い蓋をめいっぱいの力で持ち上げようとする。だがグレーチングはボルトで固定されていて、専用の工具でないと外せなさそうだ。甲斐は申し訳なさそうに楓に言った。
「楓ちゃん、ここからは猫を助けることはできないよ」
「なんで?」
「ネジがはずれなくて、この家の中に入れなくて」
「どういうこと?」
「ええと……」
甲斐は言葉に詰まった。こう言う時、説明下手な自分は損だなと思う。例え自分の頭の中で理解できても、周りに問い詰められるとその雰囲気に気押されてパニックになってしまうのだ。
こんな時、甲斐はあいりの言葉を思い出す。ある事件の捜査に関わった時、いつものようにパニックになった甲斐をあいりはこう諭した。まずは目の前の問題をひとつ言葉にすること。その問題は何故起きたのかを考え話すこと。そしてどうすればそれが解決するのか(自分にできるのか)を正直に伝えること。あいりから示されたのは目から鱗の解決方法だった。
甲斐は一度深呼吸する。周りにある全ての臭いをとりこむと、膝を抱える楓に目線を合わせた。
「あのね。この蓋にはネジがついているんだ。で、そのネジは専用の工具じゃないと外せない。僕の力だけでは蓋を外すことができないんだ」
「じゃあ、ねこちゃん助けられないの?」
今にも泣きそうな楓に甲斐はいいや、と首を横に振った。
「この中をのぞいてごらん。窓があるの、わかる? あれはこの家に地下室があるってことなんだ。だから、家の中に入って、地下室からあの窓を使って下りれば猫の居る場所にたどりつけるかもしれない」
「ワンちゃんやって! ねこちゃん助けて」
楓の願いに甲斐は頷く。予想以上に厄介なことになってしまったけど、このまま引き下がるのは気が引ける。だから甲斐は腹をくくった。
この家の中に入るには売主に事情を話して、鍵を借りる必要がある。売主の情報は表の玄関に行けば表札か何かあるかもしれない。なければ隣の家に連絡先を聞くか、付近の不動産を当たるまでだ。
甲斐はすっくと立ち上がると、家の表側に回った。