2013
白鳥の経営する音楽事務所は店から二本ほど通りを挟んだ先のビルにあった。
「あの、社長の白鳥さんはいらっしゃいますでしょうか?」
入口の受付であいりが尋ねる。対応した女性は突然現れた男とも女とも判断しづらい巨人に口をあんぐりとさせた。
「あ、っ、ポイントメントは取りましたでしょうか?」
言葉に詰まる受付嬢にあいりはいいえ、と自嘲じみた笑いを浮かべる。事前に話したら拒否されると思ったため、わざとしなかった。あいりは白鳥を試すかのようにこんな言葉を添えた。
「緊急の用件なので約束はしてません。白鳥さんに安芸翠さんの件で、大事な話があると伝えて頂きたいんですけど」
「少々お待ち下さい」
受付の女性は電話の受話器を取ると、内線でその旨を伝える。あいりたちは白鳥の反応を静かに待った。電話で幾つかの会話がやりとりされたあと、彼女が分かりました、と答える。受話器を下ろし、あいりを見上げた。
「五分でよければ話を伺うとのことです。こちらへどうぞ」
女性の案内され、あいりたちは事務所の中へと足を踏み入れる。普通の会社と変わらない、事務机が幾つか置かれたフロアの中で一番目を引いたのは、壁一面に描かれた巨大ポスターだ。
「光と影」というタイトルのそれは最初、白から始まり水色青紺といった青のグラデーションを通過する。フロアの奥に進むとそれは更に色を濃くし、最終的に宵闇の色へと行き着く。中央に描かれた少女はピカソにも似た面立ちで、比較的明るい色側の左半分は笑顔を見せ、暗い左半分は叫びにも似た泣き顔を見せている。そして少女の傍らに絵の具で描いたtooyaの文字があった。
この芸術色が突出した絵画はtooyaの新しいアルバムの宣伝ポスターらしい。ただのポスターなのに、命を削る様な色彩とタッチにあいりは圧倒された。
案内された応接室はフロアの一部をパテーションで区切っただけの簡単なものだった。スタッキングチェアに座るよう促されたあいりは衣咲を奥の席に座らせる。手前の席にあいりが腰を下ろすと、女性がテーブルの上にあるプレーヤーに手を触れた。小さなモニターから映像が流れ始める。それはtooyaの新しいアルバムの宣伝を兼ねたインタビューだった。
のっけからアナウンサーは興奮気味な口調でこれがどれだけ凄い事かを語り始める。話によるとtooyaはこれまでインタビューやテレビ出演はNGという鉄壁があったそうだ。でも今回は特別に許可を頂いたらしい。
最初、tooyaがそこまでしてメディアの露出を拒んだのがあいりには不思議で仕方なかったが、その理由は映像を見てすぐに分かった。tooyaは極度の人見知りで、握手するだけでも手を震わせていたのだ。インタビューの間も相手と目を合わせようとしない。なのでアナウンサーはtooyaさんはシャイだの、繊細な心の持ち主だのとフォローを入れるのに必死だ。あいりは愛想も何もない映像に苦笑した。こんなんで番組として成り立つのかなと思う。そんな時、お待たせして申し訳ありません、と声をかけられた。あいりはモニターから目を離す。目の前に恰幅の良い男性が立っていた。あいりが一度立ち上がると、男性はその背の高さに圧倒されてしまう。
「ええ、っと。お待たせして申し訳ありません」
「こちらこそ、お忙しい中時間を割いて頂きありがとうございます」
「その、アキさんについてお話があるとか?」
「はい」
あいりは自分の名を名乗ると、再び椅子に座る。早速本題に入った。
「実はアキさんと連絡が取れなくて困っているんです。それであるお店の方から貴方なら知っているんじゃないかと伺いまして。白鳥さんはアキさんとお知り合いだそうですね」
「ええ。彼女のことは気にかけておりますよ」
「では、アキさんとは仲がよかったと」
「そうですね。恋人とも違いますが――彼女は年下の友達であり。娘のような存在で」
「嘘」
突然衣咲が口をはさんだ。鋭い目を白鳥に向ける。
「私、知ってるんだから。一週間前にアキちゃんと店で揉めたって。アキちゃん『話が違うって』怒ってたって! あんたが何かしたんじゃないの?」
衣咲のその、挑発とも呼べる発言に白鳥は目を丸くする。あいりは心の中で舌打ちすると、衣咲の口を自分の手で覆った。
「ああ、申し訳ありません。この子口が悪くて」
「おねーさまったらひどいっ。だって本当のことじゃないですかっ」
「だからってあからさまに言うことはないでしょう」
あいりは衣咲をたしなめたあと、白鳥に向かってすみません、ともう一度頭を下げる。すると白鳥は静かに微笑んだ。
「いえいえ。私の方こそ隠そうとして申し訳ない。あの時のことは思い出すだけでも恥ずかしくて――あの時は私もついカッとなって大人げない行動に出てしまいました。店長には本当、申し訳ないことをしたと思ってます」
「じゃあ、アキさんと揉めたのは事実なんですね」
「ええ。でもあれは彼女の誤解なんですよ」
「といいますと?」
「アキさんがお店で弾き語りをしていたのは知ってますよね。実は、私はアキさんの才能を買っていまして、一度うちの事務所に来ないかと声をかけていたんです。
ただ、その話をした時に少々行き違いがあったみたいで――彼女はずっとソロでやっていきたかったみたいなんですよ。でも私は、これから作るバンドメンバーの一人として声をかけたわけで――それで『話が違う』と。全ては彼女の勘違いなんですよ」
白鳥の言葉にあいりはそうなんですか、と相づちを打つ。白鳥が喋っている間、あいりは白鳥の顔色をずっと見ていた。その言葉に嘘がないか見極めるためだ。でも彼の口調は終始朗らかで繕ったような様子は見受けられない。感情の浮き沈みすらなかった。正直にいえば白か黒かの判断は難しい。
なので、あいりは話題を変えることにした。
「あともうひとつ伺いたいのですけど。白鳥さんはアキさんをtooyaさんに会わせたことはありますか?」
「一度もありませんが。どうしてですか?」
「彼女、tooyaさんに憧れて上京したと聞いたので。もしかしたら白鳥さんの方で引きあわせたのではないかと思いまして」
「そうですか。でも、その話を聞いていたとしてもtooyaに引きあわせることはなかったかと思います」
そして白鳥は流しっぱなしのDVDに目をむけた。
「こちらを見ましたよね? この映像にもあるとおり、tooyaは極度の人見知り――というより人嫌いでして、外に出るのもままならない。だからレコーディングも一苦労で。無理やり連れて行くんです」
白鳥はそう言うと自分の腕時計を見る。そろそろ出掛けなければならないので、と一言述べて席を立った。
「何だかお役に立てなかったようで申し訳ないですね」
「いえ」
「もし、彼女が見つかったら私が心配してたと伝えてもらえませんか?」
「わかりました。では失礼します」
あいりは衣咲を連れ、白鳥の事務所をあとにする。外に出ると、衣咲の口から小さなため息が漏れた。
「ここで手詰まりになってしまいましたね。あの白鳥ってオヤジが一番怪しいと思ったのに――」
落胆する衣咲にそうね、とあいりは頷く。あいり自身も白鳥が何かを知っているのではないかと思っていた。だが白鳥の喋りは流暢だったし、うろたえたり感情的になる所はなかった。白鳥の言葉に嘘はなかったのだろう。
その一方であいりは引っかかりのようなものを感じていた。それがどこだったのか、何なのかはっきりしない。でも何かがすっきりしないのだ。
あいりの中で悶々とした状態が続く。するとあいりの携帯が鳴った。相手はさっき登録したばかりの番号――アキからだ。突然の急展開にあいりは唾を飲み込む。相手の番号をもう一度確認してから慎重に通話ボタンをはじいた。