もの書きから遠ざかった人間のリハビリ&トレーニング場。
目指すは1日1題、365日連続投稿(とハードルを高くしてみる)
2013
光射す庭にその人は立っていた。あの人が林原さんよ、と言われ私の心臓がどくん、と波打つ。
「林原さん」
介護師の先輩の呼び掛けに私は息を呑んだ。ゆっくりとその人が振り返る。黒々としていた髪の色はすでに抜けていた。額の皺がやたらと目立つ。目は落ちくぼみ、頬もだいぶこけている。でも、当時の面影があった。間違いない。この人は私の――
「今度私と一緒に働くことになった、三崎さんです。み、さ、き、ま、あ、こ、さん。具合悪い時とか、何かしてほしい時は彼女を呼んでくださいね」
「こんにちは」
目の前にいる老人に私はお辞儀をした。目が合うと、老人は口元をほころばせる。柔らかく優しい微笑み。違う、と私は思った。
この人は私の父じゃない。同じ顔だけど、私の知っている父じゃない。
私の記憶の中の父はいつもお酒を飲んでいた。母と私に向かって怒鳴り散らしていた。血を吐くまで何度も殴られ、母は父のせいで脳内出血をおこし亡くなった。父は傷害致死の罪で逮捕され、家にひとり残された私は施設へと送られた。父は数年間刑に服した。
先輩の話によると出所後は小さな鉄工所や工事現場で働いていたらしい。職は幾つか変わったが、どの職場でも真面目に働いていたようだ。
私は父の消息を突きとめようとは思わなかった。母を殺した父を許せなかったし、会う気もさらさらなかった。今、この場にいるのは運命の悪戯といってもいい。
「はじめ、まして」
何十年ぶりに会う娘に父はそう言った。はじめまして。その言葉に私はほっとしたような、そうでないような複雑な感情を抱く。父は認知症が進んでいて、時々記憶が抜けおちるのだという。肝臓もだいぶやられていて、こうやって外に出られるのは珍しいらしい。
「こんな、老いぼれ、ですが、よろしく、おねが、い、します」
父が手を差し出し握手を求める。私は一瞬躇ったが、先輩に促され、恐る恐る手を差し伸ばした。父の手に触れるのは何十年ぶりだろう。父の手は皺くちゃで痩せていて、ごつごつしていた。
そのうち父の唇がまぁちゃん、と動く。懐かしい響きに私は動揺する。二つか三つの頃まで、私は両親にそう呼ばれていた。まだ幸せだった頃の話だ。
まぁちゃん、まぁちゃん。そっちに行ったら危ないよ。外に出る時はお父さんと手をつなごう。ほら。
そう言って差し出された手はとても大きくて温かかった。そして、父と手をつないだあと私は反対の手を母に差し出していた。いちにのさん、で二人に持ち上げられる、あの瞬間が大好きだった。
「まぁ、ちゃん」
父が私の名を呼ぶ。私の手をぎゅっと握っている。
「まぁ、ちゃん」
父は何度も私の名を呼んだ。とても嬉しそうに。そして私の手をそっと包み込んだ。
「林原さんったら。三崎さんのことが気に入ったみたいね」
何も知らない先輩は私達を見てにこにこと笑っていた。私は困惑する。父は目の前にいる人間が自分の娘だと気づいたのだろうか? 疑問が渦を巻いて私の中を駆け巡る。老いぼれた手を振りほどけばいいのに、それができない。
私達はしばらくの間手を繋いだまま過ごす。父は事あるごとにまぁちゃん、と呼び続けていた。(1304文字)
介護施設で絶縁していた父と娘が再会するという話。父への恨みと楽しかった思い出の間で葛藤を続ける娘を描いてみた。
「林原さん」
介護師の先輩の呼び掛けに私は息を呑んだ。ゆっくりとその人が振り返る。黒々としていた髪の色はすでに抜けていた。額の皺がやたらと目立つ。目は落ちくぼみ、頬もだいぶこけている。でも、当時の面影があった。間違いない。この人は私の――
「今度私と一緒に働くことになった、三崎さんです。み、さ、き、ま、あ、こ、さん。具合悪い時とか、何かしてほしい時は彼女を呼んでくださいね」
「こんにちは」
目の前にいる老人に私はお辞儀をした。目が合うと、老人は口元をほころばせる。柔らかく優しい微笑み。違う、と私は思った。
この人は私の父じゃない。同じ顔だけど、私の知っている父じゃない。
私の記憶の中の父はいつもお酒を飲んでいた。母と私に向かって怒鳴り散らしていた。血を吐くまで何度も殴られ、母は父のせいで脳内出血をおこし亡くなった。父は傷害致死の罪で逮捕され、家にひとり残された私は施設へと送られた。父は数年間刑に服した。
先輩の話によると出所後は小さな鉄工所や工事現場で働いていたらしい。職は幾つか変わったが、どの職場でも真面目に働いていたようだ。
私は父の消息を突きとめようとは思わなかった。母を殺した父を許せなかったし、会う気もさらさらなかった。今、この場にいるのは運命の悪戯といってもいい。
「はじめ、まして」
何十年ぶりに会う娘に父はそう言った。はじめまして。その言葉に私はほっとしたような、そうでないような複雑な感情を抱く。父は認知症が進んでいて、時々記憶が抜けおちるのだという。肝臓もだいぶやられていて、こうやって外に出られるのは珍しいらしい。
「こんな、老いぼれ、ですが、よろしく、おねが、い、します」
父が手を差し出し握手を求める。私は一瞬躇ったが、先輩に促され、恐る恐る手を差し伸ばした。父の手に触れるのは何十年ぶりだろう。父の手は皺くちゃで痩せていて、ごつごつしていた。
そのうち父の唇がまぁちゃん、と動く。懐かしい響きに私は動揺する。二つか三つの頃まで、私は両親にそう呼ばれていた。まだ幸せだった頃の話だ。
まぁちゃん、まぁちゃん。そっちに行ったら危ないよ。外に出る時はお父さんと手をつなごう。ほら。
そう言って差し出された手はとても大きくて温かかった。そして、父と手をつないだあと私は反対の手を母に差し出していた。いちにのさん、で二人に持ち上げられる、あの瞬間が大好きだった。
「まぁ、ちゃん」
父が私の名を呼ぶ。私の手をぎゅっと握っている。
「まぁ、ちゃん」
父は何度も私の名を呼んだ。とても嬉しそうに。そして私の手をそっと包み込んだ。
「林原さんったら。三崎さんのことが気に入ったみたいね」
何も知らない先輩は私達を見てにこにこと笑っていた。私は困惑する。父は目の前にいる人間が自分の娘だと気づいたのだろうか? 疑問が渦を巻いて私の中を駆け巡る。老いぼれた手を振りほどけばいいのに、それができない。
私達はしばらくの間手を繋いだまま過ごす。父は事あるごとにまぁちゃん、と呼び続けていた。(1304文字)
介護施設で絶縁していた父と娘が再会するという話。父への恨みと楽しかった思い出の間で葛藤を続ける娘を描いてみた。
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プロフィール
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和
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性別:
女性
自己紹介:
すろーなもの書き人。今は諸々の事情により何も書けずサイトも停滞中。サイトは続けるけどこのままでは自分の創作意欲と感性が死ぬなと危惧し一念発起。短い文章ながらも1日1作品書けるよう自分を追い込んでいきます。
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