2013
ニシの別荘に飛び込んだ時はすでに祭りの後だった。
私達は家の中に足を踏み入れる。リビングに入るとそこは異様な空気に包まれていた。テーブルの上の皿のほとんどは綺麗に平らげられている。ナイフに残った生クリームからは甘い香りがこちらにも届いてくる。見るからにここで小さな宴が行われていたのが分かる。
その一方でこの場にそぐわない景色も見られた。窓ガラスは派手に割れているし、無数の足跡が床に散らばっている。よくよく見れば血をこすったような痕も見つかった。血の匂いが鼻をかすめる。
一体ここで何があったの? だんだんと冷えていく自分の体を抱きながら、私たちはニシを探す。家の中をひととおり回った後、もう一度リビングに戻ると、外にぼんやりと浮かぶ人影を見つけた。ニシは壊れた窓ガラスの向こう側――ウッドデッキで月を見上げていたのだ。
私と北山さんに安堵の表情が浮かぶ。
「晃さん……無事だったのですね。怪我は?」
「別に、たいしたことはない」
ニシは北山さんの心配とはうらはらにっそっけない態度を見せていた。私は辺りを見渡す。ここに居るのはニシだけじゃない。
「南さんは? 一緒にいたんじゃないの?」
「南亜理紗は――消えた」
その言葉に私の心臓がどきりとうずく。先ほどの血を思いだした。
「まさか、死んだ――とか?」
「そうだな。死んだと言うのが正しいのかもな」
ニシはさも可笑しそうに笑う。その呑気で他人事のような態度を見ていたら血の気も引くどころか、無性に腹立たしくなった。私はニシの前に立つ。気づいた時にはニシをグーで殴りとばしていた。
「あんた……自分が何したか解ってる? 自分の命危険に晒して人に散々心配かけて。こっちは気が気じゃなかったんだから! なのにそれしか言えないの? 申し訳ないって気持ちはないのかこの馬鹿っ」
私は一気に言葉を吐くとその場にしゃがみこんだ。そして一呼吸おいたあとでもう一度南さんは何処、と尋ねる。もし彼女が現れて、ニシと同じ反応をしようものなら一発殴らせてもらおうと思った。けど、ニシの返事は何一つ変わらない。
「南亜理紗はもういない。彼女はやっと、本当の自分に戻れたんだ……」
ニシはそれだけ言うと、口を閉ざしてしまった。それってどういう意味? 私が詰問するとふいに肩を掴まれる。振り返ると北山さんが首を横に振っていた。
「今はそっとしてあげましょう」
「でも!」
「晃さまにはあなたの気持ちが十分届いているはずです。でも今それを受け止める余裕はないのかもしれない――だから」
北山さんに諭され、私はニシに詰め寄ることを諦める。私がぐっと唇を噛み締めていると、ニシは私に背を向けた。迎えにきたヘリに向かって歩いていく。すぐに北山さんがついていくものだから、私は取り残されないよう追いかけるしかなかった。
――その日、私が帰宅したのは日がしらじらと明けた頃だった。高校生の娘が堂々と朝帰りをしたものたから家族は大騒ぎだ。送ってくれた北山さんが事情を説明してひととおり両親は納得してくれたけど、それでも非常識だと叱りを受けた。くそう、ニシのやつ。学校で会ったらたたじゃおかないんだから。私は睡眠不足の頭で学校に行きニシの登場を待ったけど、その日からニシは学校に来なくなってしまった。
そして明日からいよいよ夏休みという日、私はバイト先で南さんの姿を見た。
一週間ぶりに会う彼女は以前よりも少し痩せた気がする。でも顔色は悪くない。彼女は私を見つけると真っ先に声をかけてくれた。
「ヒガシさん久しぶり」
彼女の挨拶に私はこんにちは、南さんと返そうとした。でも、途中でふっと思う。
私は彼女の正体に気づいてしまった。ここは紗耶香さん、あるいは蓮城さん、とでも呼べばいいのだろうか? でもいきなり呼んだら不審がられないか?
さあ、どっちで呼ぼう――そう考えあぐねているとスタッフルームの扉が開いた。従業員が現れ、南さんはすぐに身を引くが、通路が狭いせいで相手と軽く肩がぶつかった。相手がごめんなさいと謝り彼女が大丈夫ですと返事をする。
従業員が去った後、南さんが肩を押さえた。痛みをこらえてる、そんな感じだ。
「肩、痛いの?」
「大丈夫、ちょっと怪我しただけだから」
南さんが静かに口元を上げた。寂しそうな微笑みだ。その憂いを帯びた表情を見ていると聞かずにはいられなくなる。
「あの日、別荘で一体何があったの?」
「晃くんから何も聞いてない?」
「ニシは……一週間前から学校を休んでるから」
「そっか」
気がつけば彼女はニシのことを「晃くん」と呼んでいた。それを聞いて私はああ、やっぱりこの人が紗耶香さんなんだな、としみじみ思う。
「簡単に話せば私が馬鹿なことをして、その報いを受けた――ってとこかな? 話すと長くなるから、詳しい事は晃くんに聞いて」
それが出来たらどれだけ楽かと私はこっそり思う。二人の間には他の人が立ち入れない何かがある。それを詮索するのは野暮だというのも分かっている。でも、今回のことは言い訳の一つぐらいあってもいいんじゃないかと私は思っていた。南さんはともかく、ニシにおいては捜索に自家用のヘリまで出動したのだ。これで何もありませんでしたと言われたら周りは本当やってらんない。私や北山さんの労力は一体なんだったんだって思ってしまう。
結局、私が本当に聞きたいことはあっさりと棚上げされ、別の話題に移された。
「今日はお別れを言いにきたの。父の仕事の都合でね、しばらくの間日本を離れることになったの。さっき店長にもその話をして――これから空港に向かう所」
「空港って、今日発つの?」
「夕方の便でね」
短い間だったけど色々ありがとう、そう彼女は言うと私に小さな箱を差し出した。それは前にニシがくれたマカロンだ。淡い色のパッケージが今はとても懐かしいものに思える。 私は箱を受け取ると、彼女に尋ねた。
「ニシにはそのこと、話したんですよね? ちゃんとお別れ言ったんですよね?」
その質問に彼女は微笑むだけだ。それはイエスともノーとも取れる表情で、私は困惑する。
「今度晃くんに会ったらよろしく言ってたと伝えて。私は大丈夫だから、って」
じゃあね、と言って彼女が踵を返す。颯爽と歩く彼女の後姿は凛としていてとても美しい。でも私の中のもやもやは何時までたっても晴れやしなかった。
携帯に設定した仕事開始のアラームが鳴る。私にはこれから仕事が待っている。そう、動かなきゃ。もっとバイト代貯めて、自分にご褒美を買わなきゃ。
でも――
私はくるりと踵を返すと、スタッフルームに飛び込んだ。ロッカーから自分の鞄を出しくるりとひっくり返す。中からは色々な物が出てきた。置きっぱなしにしていた教科書に今日貰ったばかりのプリント、ペンケースやポーチ。そしてくしゃくしゃに丸められた紙が落ちた。私はそれを拾い丁寧に広げる。それはニシに初めて会った時に渡された名刺だった。歪んだ数字を拾い上げ、携帯に打ち込んでいく。数回コールが鳴るがすぐに留守電に変わった。
あの馬鹿。何やってんのよ。
私は仕方なく文字を打ち込んでメールを飛ばす。携帯をしまうとバイトの制服のまま外へ飛び出した。
(使ったお題:66.さぁ、どっち)