2013
注文を受けたおかみさんは鉄板に火をつけると奥の厨房へ向かっていった。ほどなくして飲み物が届き、そのあとに銀色のボウル三つと大皿がテーブルに並べられた。ヤツは初めて見るお好み焼きの生地に口を歪ませる。まるで不味いものを見るような目だ。
「まさか。このまま食べるとかないだろうな」
「んなわけないでしょ」
そう言って私は服の袖をまくった。
ここの店ではテーブル席につくと自分たちがお好み焼きやもんじゃを作ることになっている。作り方は家庭で作るときとさほど変わらない。私は食材と生地をスプーンでぐるぐるとかき回した。ほどよく混ざった所で豚バラを鉄板で焼き始め、その上に生地で二つの円を描いた。
焼いている間私は乾いていく生地をじっと見つめていた。この時間を使って焼きそばを作っても良かったのだけど、それぞれの味を楽しみたかったので、今回は別々に作ることにする。
頃合いを見て生地をひっくり返すとヤツの口から驚きの声が上がった。
「これは綺麗に焼き上がったものだな。って、ああ、そんなにソースを塗ったらせっかくのきつね色が台無し――おおお! かつお節が踊っている? これは何かのマジックか?」
「はいはい」
私は半ばあきれ顔で作業を進める。コテで食べやすい大きさに切ったあと、それぞれの分を皿に盛った。本当はコテに乗せて直で食べるのが美味しいんだけど、それをやるとヤツの眉間にしわが寄りそうだ――って、今の状態でも十分不審顔だし。
「どうぞ」
私は皿をヤツの前に差し出した。ヤツが箸でできたばかりのお好み焼きを物珍しそうに眺めていた。匂いを嗅ぎ食べるべきかを本能で判断している。そのあからさまな警戒心にあのさ、と私は口を挟んだ。
「変な物は入ってないから。冷めないうちに食べてよ」
ヤツは私の言葉を聞いてから恐る恐る口に入れる。まずは一口。ゆっくり咀嚼したあとでヤツの目が見開く。
「これは――旨いじゃないか!」
「でしょ?」
ここのお好み焼きは豚とエビとイカの配分が絶妙でそれぞれの旨みが生きているのだ。生地の外はパリパリで、なのに中がもっちりしてるのは中にもちが入っているから。今はソースをかけて食べてるけど、生地自体はだし汁とかつお粉で味付けしてるからそのまま食べてもいけるのだ。
ヤツの及第点を頂いたので、私もお好み焼きをほおばることにする。久々にありつけた絶品に目元が潤んだ。ああ懐かしい。美味しい。幸せで心と体がいっぱいになった。向かいには生まれて初めて食べたお好み焼きを夢中でほおばるヤツがいる。鉄板が全て綺麗になるまで、私たちは無言で食べ続けた。
お腹が半分満たされた所で、私は焼きそばを作ることにした。どうせヤツに聞いてもやったことがないとかって言うんだろう。
私は焼きそばの材料が入っている大皿に手をつける。肉と野菜だけを鉄板に落として焼いて。皿にたまった野菜の水はあえて残しておく。この水は麺を蒸す時に使用するのだ。
ヤツは私の動きを観察しながらほう、とため息をつく。
「ヒガシはずいぶん手慣れているようだな」
「昔、練習のあとここでで作ってたから」
「練習?」
「野球。中二までやってたの」
野菜を大ぶりのコテで炒めながら私は言う。
ここは私が所属していた野球チームの溜まり場だった。日曜日は朝からそこの河川敷で練習して、終わったら泥のついたユニフォームのままここで鉄板を囲むのがデフォだった。試合で勝った日は監督がおごってくれたこともある。
通っていた中学には女子の野球部がなかったので私は同級生たちがいなくなってもチームに残って野球を続けていた。思えば、あの頃が私の黄金期だったのかもしれない。
私はコテを置くと空いた手のひらを膝の上に乗せた。ここ最近冷え込んできてるから、そろそろタイツやサポーターが必要かな、と思いつつ、私は言いそびれてしまった言葉をヤツに伝える。
「そういえば――お礼言ってなかったね」
「お礼? 何のお礼だ? 服のことか? それともこの店に連れてきたことか?」
「ビーチフラッグのこと。アンタが止めてくれたから助かった」
あのまま理不尽なゲームを続けていたら私の足は壊れていた。ヤツがどういう意図で言ったかは知らないけど、私としてはありがたい展開だった。ヤツには未だ憎たらしい気持ちはあるけれど、感謝の心がちょっとでも出てしまった以上、礼儀はわきまえなければならない。
「ありがとう」
私は軽く頭を下げる。改まって話したせいか気恥しさが残ったけど、まあいいや。今日が終わったら最後、今後会うこともないだろうし――
そんなことを思いながら私は顔を上げる。が。
「え……」
私は自分の目を疑った。ヤツが手で口を塞いで何かを堪えている。よく見れば口から上が赤くなっていくではないか。
え? えええっ! 何。何なのそのリアクション。耳まで赤くなってるんですけど。
「ちょ、どうしたの?」
「いや、その」
ヤツの籠った声が私の耳に届く。
「これまで褒められることはあっても感謝を述べられたことはほとんどなくて……久しぶりに言われてかなり驚いているというか」
えええ! 何ですかその恥じらいは。
想像もつかなかった反応に私は思わず身を引いてしまった。
「えっと……そういうのってその、家族とか友達に普通に言わない?」
「家族とは昔から上っ面の会話しかしてないからな。それに友人は――」
そこで会話はぶつりと途絶えた。ヤツの言葉が続かないのだ。訪れた沈黙に私は更に戸惑う。え? それってまさか。
「アンタってもしかして――友達いない、とか?」
その質問にヤツの肩がぴくりと動いた。さっきの熱っぽい顔が一気に引き青ざめていく。沈黙が再び訪れる。ええと、これって地雷踏んじゃったとか? そんなのありえんだろ?
目の前にいる男は一応生徒会長を務める人間だ。選ばれたということはそれなりに人から慕われているはずでしょ? なのに何で?
聞きたいことは山ほどあった。でもすぐに我に返る。二度しか会ったことのない人間にそこまで突っ込むのは如何なものだろうか? それ以前にこれ以上ヤツに関わっていいものだろうか? 答えはNOだ。
触らぬ神に祟りなし。そう、ヤツとの関わりは今日でばっさり斬られるんだから。
私は話題をあさっての方向へ投げ飛ばした。
「あー、何か甘いもの食べたくなっちゃったなぁ」
ホットケーキ焼こうか、なんて白々しい台詞を吐きながら次のボウルへ手を伸ばす。ヤツがゆっくりと顔を上げたが私はあえて目を合わさないようにした。この状況を打破すべく何か話さなきゃと思うけど、ちょうどいい言葉がみつからない。
私はただ、鉄板とのにらみ合いを続けるしかなかった。
2013
危機一髪のカーアクションを見たあとで私は考えた。命を狙われてると知ったなら尚更、いくらなんでもこの後は警戒して家に帰るだろう、と。ところがどっこい、そうは問屋が卸さないわけで。
「余計な邪魔が入ったが、食事にいくとするか」
そう言ってヤツはご機嫌顔で車の中へと入っていったではないか。これが格の違いと言うべきか、さすが神の一族と言われるだけのことがある。さっきヤツは私のことを肝が据わっていると言っていたけど、その言葉そっくり返してやりたいわ。
今度こそ車は目的地に向かって順調に走っていく。居眠りしたせいで現在地も帰り道も分からない私は言われるがままついていくしかない。
てっきり高級レストランに連れて行かれるのかと思ったのに、実際に連れてこられたのは河川敷の近くにある小さな店だった。外に掲げられた「お好み焼き・もんじゃ」の看板が目を引く。それを見た瞬間私の体が強張った。
「何で――ここに?」
「おまえの親友とやらが教えてくれた。おまえはずっとここに行きたかったらしいな。だから急遽変更した」
げっ、久実ったら何てことを。
「俺もここは初めてだな。名前だけは知っていたが『お好み焼き』とはどんなものか食べてみたい」
私は慌てて首を横に振った。
「いいっ。また今度にするから」
「今更何を言う。ここに来たかったんだろう?」
「だから私はいいって。お腹すいてないし」
その時タイミング良く私のお腹が鳴った。それを聞いたヤツがにやりと笑う。
「やっぱり腹がへっているじゃないか」
ヤツは私の腕を掴むと店の扉を開いた。引きずられるようにして中へ連れて行かれる。そこはカウンターと鉄板のついたテーブル席が二つという、こじんまりしたつくりの店だ。客の談笑とともにいらっしゃい、という懐かしい声が耳に届く。ソースの香ばしい匂いが鼻をかすめた。胃袋が懐かしい味を恋しがる。
この店の主人は笑顔で迎えてくれた。かっぽう着と三角巾姿の中年女性は私の顔を見てあら、というような顔をする。
「もしかして――ナノカちゃん?」
ちょっとハスキーな声は今も変わらない。
私は心臓がひっくり返りそうな思いを必死に抑えた。動悸とともに後ろめたさが走る。でも私のことを覚えててくれたことが嬉しくて――
私はヤツの手をふりほどくと、ぺこりと頭を下げた。
「おひさし、ぶりです。おかみさん」
「やっぱりナノカちゃんだ。ずいぶん綺麗になって――あれまぁ」
さあさどうぞ、そう言っておかみさんは私たちを4人掛けのテーブル席に案内した。メニューを出しながらおかみさんはぽつりと言葉を漏らす。
「ナノちゃんがここに来てくれるなんてうれしいねぇ。あのあとチームやめたって聞いてたから。心配してたんだよ」
おかみさんの言葉に私の心臓がうずく。細い声ですみません、と謝った。
「一度挨拶に伺おうとしたんですけど、色々忙しくて――」
「いいんだよ。便りがないのは元気な証拠だっていうじゃないか。でもたまにここに来てくれると嬉しいね」
「そうですね」
私は愛想笑いを浮かべる。色々忙しいなんてつい言ってしまったけど、本当は全然忙しくなんてなかった。この店は家からそう遠くないし、行こうと思えばすぐに行ける。でも私はここに来るのをあえて避けていた。あの頃の知り合いに会うのが怖かったのだ。
おかみさんはそんな私の気持ちを知る由もなく。店内を珍しそうに見るヤツをちらりと見て一緒にいるお兄さんは? と私に耳打ちした。
「もしかして彼氏かい?」
「えー、と」
こいつは彼氏や友人じゃないし、知り合いとも言い難い。しいて言うなら――
「通りすがりの疫病神?」
私の答えにおかみさんが目を丸くする。そのあとであっはっは、と豪快に笑った。
「相変わらず面白いことを言うねぇ。食べたいものは決まった?」
私は店の壁を眺めた。紙に書かれた手書きのメニューをひととおり見た後で、私はちらりとヤツの顔を見た。
「適当に頼んでいいんだよね?」
「ああ」
「じゃ、ミックスと焼きそば二人前と、ホットケーキにチョコとバナナをトッピングで。あとコーラをふたつ」
2013
どのくらい眠っていたのだろうか。私は不快感で目が覚めた。座り心地がどうも悪い。工事中の砂利道でも走っているにしてはずいぶん長いような――
そのうちパン、という音が立て続けに響き、車が急に傾いた。遠心力で飛ばされた私は隣りに座っていた久実にもたれ込む。その大きくて柔らかい胸に包み込まれるかと思ったのに、その感触は思ったより固い。というかガチガチだ。
あんたいつからこんなぺったんこに? まさかパットで騙してたとかないよね?
私は寝ぼけまなこで久実を見上げる。するとヤツの顔が突然現れた。私の眠気がいっきに吹き飛ぶ。
「な、な、な」
「鼻息飛ばす前にその重い体をどけろ」
そう言ってヤツはおもむろに私の頭を掴むと、座席シートに押しつけた。私の口からふぎゃ、と言う声が漏れる。
「この車は防弾仕様だが、万が一ということがあるからな。しばらくそうしてろ」
外で何かがぴし、ぴし、と弾ける音がする。外を見ると蜘蛛の巣のようなヒビが窓を彩っていた。何か鋭いものが当たっている。
な、何?
「状況は?」
体を伏せたままの状態でヤツが運転席に問う。
「タイヤがパンクしました。このままでは10分もつかどうか」
「そうか。ずいぶん上手く当てたもんだな」
「あちらでスナイパーを雇ったのかもしれません。この様子だと相手の目的は晃さまの誘拐ではなく抹殺かと」
「俺の首を取ってニシ家を動かそうって魂胆か。下衆の考えそうなことだな」
「どうします?」
「それがなら一度事故で死んだように見せかけるのも悪くないな。たまには馬鹿の喜ぶ顔を見てみたい。できるか?」
「晃さまがそれを望まれるというのなら」
「ではすぐに実行に移せ」
運転手はハンドルを右に回した。襟元のピンに向かって何かを囁き指示を出している。こっちはというと、いきなり旋回したものだから再びヤツの胸に飛び込んでしまって最悪だ。
ええと、さっきからスナイパーとか抹殺とか、物騒な会話が飛んでいるんですが、一体何が起きたというんでしょう?
体制を整えた私が状況を掴めずにいると、シートベルトを着用したヤツがにやりと笑った。
「ヒガシにこれから面白いものをみせてやる」
ヤツは何だかとても嬉しそうだ。けどそれ、どうみてもヤバイよね。何というか。命の危険を感じるような?
私の不安をよそにして全ては回り始める。ヤツは運転席へ向かって声をかけた。
「北山、準備が整うまでであと何分かかる?」
「向こうは三分で準備できるそうです。誘導地突入まではあと五〇秒ほどで」
「それじゃ遅い。向こうに半分の時間で済ませろと伝えろ」
「はっ」
ヤツがそんなやりとりをしている間にも車は右へ左へと揺れている。前回のこともあった手前、私は座席にあるシートベルトを慌てて締めた。前も思ったけど、こんなカーアクションしてたら寿命もたないわ。というか、周りに被害は及ばないのかしら?
車が一気にスピードを上げる。気がつけば速度メーターは上限を振り切っていた。と思ったら見通しの悪い交差点で運転手が急にハンドルを左に切るし。その勢いで車の尻が滑り一八〇度回転する。車はそのままシャッターのガレージへ突進していった。運がいいのか悪いのか、一台しか入らないガレージには車が停まっていて――ひいいっ、このままじゃぶつかるじゃない!
私は思わず目を瞑った。ああ、私の人生これでおしまいかも。そんなことを思いながら。
しかし車は体面衝突することなく、ガレージの中へ入っていった。かわりにきゅきゅ、と音を立てながら車の横を何かが横切る。もの凄い勢いで飛びだす黒い影が窓から見えた。あれは――
「あれは『おとり』だ」
そう言ってヤツはシートベルトを外すと、停車した車から降りてしまった。慌てて私も追いかけようとするけれど、体の感覚が戻らない。
私はふらつく体に鞭うってなんとか車の外へ脱出した。ガレージのシャッターはすでに閉められていて真っ暗だ。
「ちょ、何処……」
私は手探りで前へ進んだ。闇に紛れてしまったヤツの姿を探す。すると急に明るくなった。白い道標が私の前に現れ、大きな影が壁に映し出される。
「どけ。おまえの影で何も見えん」
その声に思わず振り返ると、車の横にヤツが立っていた。すぐそばに映写機があり、光の粒が拡散している。壁に映し出された映像は幾つもの升目で分割されていて、道路や公園の様子が一度に見れて把握できるようになっている。住宅街全てを覗き見できるようになっているこの場所はさしずめ監視室、といった所なのだろうか? よく見れば周りでパソコンと格闘している黒づくめの人がいる。
私は慌てて光の筋から離れた。それぞれの画面をぼんやりと眺める。そのうちそれら全てが不自然であるということに気づいた。休日なら通りや家の前に家族連れの姿があってもおかしくない。なのに人の気配が一切ないのだ。この間の住宅街と同じだ。私は執事らしき人が言っていた誘導地の言葉にはっとする。
もしかしてここは「そういった時」の為の場所なの? 戦隊ヒーローが巨大怪獣と戦ってる場所が街から山へ切り替わるように。奴らが作った無人の住宅街は周りへの配慮だった――とか?
「ねえ、ここって――」
私はもろもろの疑問をヤツにぶつけようとする。だが、ヤツはスクリーンの一点に集中していて私の話に耳を傾けることもない。仕方がないので私はしばらくの間静観していることにする。
やがて、スピーカーからエンジン音が聞こえてきた。分割された画面の右上におとりのベンツを追いかける車が見える。クラクションの音の低さからしてダンプカーっぽい。画面を操作している人がその一角を拡大し映像を見やすく調整する。
ダンプカーはもの凄い勢いでベンツに追いつく。そして別のカメラが車の横につけてきたのを確認した。ダンプカーはクラクションを鳴らして煽っている。そのうち幅寄せして近づいてきた。やがて何かがぶつかる音とともに映しだされた画面が黒で塗りつぶされた。カメラが駄目になったようだ。
すぐに別の視点から撮ったカメラの映像が引きのばされた。それは通りの街灯カメラからの映像でもろもろの状況が一望できるようになっていた。ガードレールの前に三分の一以下に収縮された車の姿が見える。原型をとどめていない鉄の塊は数秒後に爆音を立てて炎上した。スクリーンが大きすぎるせいかその迫力は半端ない。
燃え盛る車の映像を見た私に一抹の不安がよぎる。おとりの車だったとはいえ乗っていた人はいたはずだ。その人は――?
「案ずるな。潰される前に運転手は窓から脱出している」
心を読んだのか、ヤツがぽつりと呟いた。ああそう、それならよかった。
私は安堵のため息をつく。それからしばらくして一番大事なことを思い出す。
「そういえば久実は? どこいっちゃったの?」
「あの女なら先に家まで送ったが?」
「あ……そうなんだ」
私はつい間の抜けた返事をしてしまう。そんな私を見てヤツは首をかしげた。
「本当――おまえは俺の想像を超える反応をするのな」
「はい?」
「流石のおまえもこの状況なら泣き叫ぶと思ったんだが。肝がすわっているというか」
「いやいやいやいや」
私は思いっきり否定する。顔に出てなかったかもしれないけど、十分驚いたって。こんな場面、映画とかテレビの世界だけかと思っていた。でも非日常の世界に二度飛びこむとある程度免疫が――できるわけがない。怖かったし死ぬかと思ったし。
「あのさ、もしかしてあんたってずっと命狙われてるわけ?」
俺に構わずニシ家に恨みを持つヤツは国内外問わず沢山いるからな。こんなのは日常茶飯事だ」
だからどうした? と言わんばかりの目で見られたので、私は思わず目をそらしてしまった。目の前に立ち上る黒煙の映像を再び見据える。ぶっちゃけて言うならこんな思い二度としたくない。だが、ヤツにとってこれは日常茶飯事なのだ。
ヤツは大したことないように言うけど――
私はちらりとヤツの顔を見上げる。ほんのちょっとだけど、ヤツを不憫だなと思ってしまった。
2013
ヤツの褒め言葉は久実に向けられていた。それを知って私はそっと胸をなでおろす――がっ。振り返ったことでヤツとばっちり目が合ってしまった。私の口があ、と開く。ヤツは私の頭から先をひととおり見た後で非常に残念な顔をした。
「地味だな」
分かってはいたけれど、それをヤツの口から聞くとひどくムカついて仕方がない。
「色気とはあまりに程遠い。あいつのように服の色を明るくするとか肌を露出しようとか考えないのか?」
久実と引き合いにされた私は悪かったわねぇ、と毒を吐く。
「これが私には一番しっくりくるんです。それよりも制服は? 脱衣所になかったんだけど」
「制服は後日クリーニングして返すが、今着ている服は持って行け。ゲームの参加賞だと思えばいい」
「あっそ」
私はそっけない返事をする。その裏でちょっとだけ感心していた。私はてっきり学校のジャージとかを貸したりするのかと思っていたのだ。
「ずいぶん粋なことをするじゃない」
「部外者の服を汚させたまま返すのは学園の名が汚れるからな」
「なるほど」
俺様ではあるけど、一応学校の体面は考えているらしい――と思ったのもここまでだった。
「よし、着替えも済んだことだし、出掛けるか」
「どこ行くの?」
また学園を案内するのかと私が問うと、否、とヤツは言った。
「ここから車で一時間ほど行った所に馴染みの店があるから。食事に行くぞ」
「行くぞ、って私らも? ここではいサヨナラじゃなくて?」
「上等の服を着ているのなら相応の店で食事するのも悪くない。何か問題でも?」
えーえー、大ありですよ。
「あんた一応生徒会長なんでしょ? 文化祭を勝手に抜けて大丈夫なわけ?」
「文化祭の主導は実行委員長が握ってる。俺のやることはほとんどない。それにもろもろの業務も『身代わり』と副会長たちがやってくれているからな」
ヤツが悪びれもなく言うから私はあいた口がふさがらない。でもそれを聞いて妙に納得できてしまった。ああそうだ、ここにはヤツに身代わりがいてもおかしくないんだと。それを考えるとこれまで不自然さが急に当たり前に思えてしまった。
「行くのか? 行かないのか?」
ヤツに示された二択に行きますっ、と即答したのは久実だ。えええっ、と驚く私に顔を近づけこれはめったにないチャンスよ、といつぞやの台詞を囁く。
「わざわざ向こうから誘って来てるのよ、美味しいもの食べれるのよ。しかもタダ! 行くならいつ? 今でしょ!」
久実の目はとても輝いている。キラキラしすぎて取り付くしまもない。私は頭をと垂らした。わかったわよ。こうなったら最後まで付き合おうじゃないの。
私達はニシの案内で来た道を再び戻る。最初に訪れたエントランスから外にでると、前に黒塗りのベンツがつけていた。それは確かに、私が以前放りこまれた(?)車と同じナンバーで、一瞬だけ私の脳裏に当時のことが蘇る。そういえばあの時捕まった人達はどうなったんだろう? 警察に連れてかれちゃったみたいだけど――やっぱり強制送還なのかしら?
そんなことを思いつつ後部座席へ乗りこむ。L型になったふかふかのシートに座ると、すぐに執事のような人からようこそ、と声をかけられティーカップを渡された。前回とは大違いの対応だ。中の紅茶に私は口をつける。
「それにしても、先ほどのヒガシの走りっぷりは見事だったな」
突然褒められた私は持っていた紅茶を落としそうになる。がちゃん、と大きな音が車内に響いた。
「ヒガシは何かスポーツでも――」
「してないわよ」
私は速攻話をへし折った。だが隣りにいた久実が飛んできた言葉をキャッチしてしまう。
「ナノちゃんは元々足が速いんですよ。五〇メートルだって七秒ちょっとで走っちゃうし。新入生の時は運動部からの勧誘がすごくて」
「ほぉ」
「でもナノちゃんそれ全部断っちゃったんだよね」
「くぅーみぃ」
私はたしなめるような声を上げる。ちょっとだけ睨むと久実ははぁーい、と肩をすくめた。
「そーゆーの苦手だっていつも言ってるでしょ」
「でもさあ、特技を褒められたら嬉しいとかもっと目立ちたいって普通思わない? ナノちゃんはその辺の感覚が壊れてるというか、変だよ」
久実にばっさり斬られた私はぐっと言葉を詰まらせる。そりゃ、褒められたら悪い気はしないわよ。私自身もそれらしい反応を示している。だけど、周りから見たらどうも薄いらしい。
「親友としては、ナノちゃんはもっと周りから評価されて欲しい所なんだけどな」
「ほお」
私達の話を聞いていたヤツから興味深げな声がかえってきた。
「おまえたちはやはり親友なのか。いつからだ?」
「ええとナノちゃんと話すようになったのは中学のキャンプからで――」
「ちょ、そんなことまで話さなくてもいいじゃない」
「えー『さわり』くらいなら構わないと思うけどなぁ。別にナノちゃんのあーんな恥ずかしいこととかこーんな失敗とかは言わないし。ねぇ会長さん」
「個人的にはそのくだりも聞いてみたい所だが、今日の所は我慢してやってもいい」
「さっすが。会長さんは話がわかる」
「当然のことだ」
ヤツは上機嫌でふんぞりかえる。おいおい。そんなドヤ顔されても困るんですが。
私ははあ、とため息をついた。久実は普段私が嫌だと思う事はしてこない。今も止めて、と強くいえば口をつぐんでくれるだろう。でも今日はそれが言いづらかった。私のせいで一度泣かせてしまったから尚更。だから勝手にしなさいよ、とだけ行ってそっぽを向くのがせいいっぱいだ。
私は冷めかけた紅茶を一気に飲み干した。しばらくは肘をつくフリをして肩耳を隠したり窓から見える景色を眺めていたけど、何せ二人の声が大きくて話が駄々漏れだ。話の花が幾つも咲いている。それと気のせいだろうか、久実の話をヤツがノリノリで聞いているような気が――ああ、いかん。聞こえないフリ聞こえないフリ。
ゆっくり瞼を閉じて目の前の景色を消す。最初はタヌキ寝入りを装っていたが、そのうち本気で眠くなる。ああ、そういえば今日は携帯に叩き起こされたんだっけ。ここに来てからもずっと気を張り詰めていたし。久実を救出してほっとしたのかな? 今は体がだるくて仕方ない。
私は手元の時計で時間を確認した。車に乗ってからまだ十分位しか経ってない。目的の場所まではまだかかるようだ。小さなあくびを噛みしめ窓に肩を寄せる。
ヤツの相手は久実に任せておこう――
そんなことを思いながら私はひと時の休息を入れた。
2013
「まずはその汚れを落としてもらおうか」
ヤツの視線は久実に向けられていた。確かに、今の久実は服も染みだらけで外に出るのもはばかられる。事情を察した久実はこくんと頷いた――が、ひとつ解せないことがある。
「何で私も籠渡されなきゃならないわけ?」
「おまえは特に汚れを落としてこい」
「は? 何それ」
意味の分からない言葉に私は眉をひそめた。
「制服そんなに汚れてないし。トマトの臭いだって――」
「トマトじゃない。汗と埃だ。特に頭が酷い」
ヤツに言われ、私は昨日お風呂に入ってなかったことを思い出した。あとで着替えを持ってこさせるから、とだけ言うとヤツが部屋の外へ出る。言い当てられた私は急に恥ずかしくなった。くそーっ。
私はぶつぶつと文句を言いながら服を脱ぐとタオルを持って浴室に入った。
暁学園の浴室は案の定、とても広い。シャワーの台数も多いし普通の浴槽の他に露天風呂もある。あとはジャグジーとか薬草風呂とかサウナとか。ええと、どこの温泉ですかここは。
大理石の洗い場で体を流したあとで私は改めて久実に謝罪する。先に浴槽につかっていた久実はううん、と首を横に振った。
「私だって招待したのと違う人間が入ったら怒られるかもしれないってのは覚悟してたから――まさか、こんなことになるとは思いもしなかったけどさ」
「……ごめん」
「気にしないで。だってナノちゃん、私を助けてくれたじゃん」
ありがとね、の言葉に私はちょっとだけ救われる。色々あったけど、久実に笑顔が戻ってよかったと心から思った。
体も心もすっきりした所で、私達はお風呂から上がった。ヤツが用意させたというバスローブを手にとるけど――
「あれ?」
私は首をかしげた。脱いで置いておいた制服がないのだ。汚れているとはいえ制服は制服。あれがないと困るのに。
すると突然部屋の扉が開かれた。私達は慌ててバスローブを着こむ。二人で手を取り合うと入ってきた相手を威嚇する。入ってきたのは私たちよりもふた回りはいっているだろう女性だった。
「な、何か……」
「入浴は済まされましたか?」
「は、あ」
「ニシさまに頼まれましてまいりました。私こういう者です」
そう言ってスーツ姿の女性は名刺を差し出した。そこには有名な高級ブランドの名前が記されている。彼女は営業スマイルで私達にこう伝えた。
「先ほどニシさまから連絡がありまして、お二方に似合う服を用意して欲しいと頼まれました」
さあこちらへ、と女性は隣りにある部屋へと案内する。そこは多分体育の着替えに使われる更衣室、なのだろう。壁に服が絵のように飾られている。異動式のハンガーがいくつもあり、服が下げられている。
キャスターのついた引き出しには下着から靴下から小物、果ては靴まで。更衣室がウオークインクロゼットに大変身だ。
「この中から好きなものを自由に選んで下さい」
「え? いいんですか?」
「はい。お代はニシ様からすでに頂いているので」
その気前の良さに私達は思わず顔を見合わせた。私はハンガーにかけられた服をいくつか掴んでみる。マネキンが着ているワンピースを見た久実が、えっ、と声をあげた。
「この服、今日雑誌で見たやつじゃん」
「それは秋の新作ですね。色違いもございますが試着してみますか?」
女性の言葉に久実は是非、と興奮気味に答えた。るんるん顔で試着室に入っていく。
私はといえば服の山に圧倒されて、どれを選んでいいのかわからなかった。もともとファッションに執着はないしワードローブは専らTシャツとパーカーだし。だからこんなキラキラやフリルを見ると目がくらむ。
それでもなんとか頭を回転させて無地のシャツとパンツを選択した。久実はその後も別の服を試したようだけど、結局最初に着た柄もののワンピースに決めたらしい。更に女性が髪も整えましょうか?と言ってきたので私達は好意に甘えることにした。念入りにブローされたおかげで、私の寝癖頭は綺麗なストレートに変化する。
「おお、よく似合うではないか」
突然ヤツの声が聞こえてきたので、私は肩を揺らした。いつの間にいたのだろう、久実の隣りにヤツがいるではないか。