2013
「久実っ!」
久実がこちらを向く。そのくしゃくしゃの顔を見た瞬間、心がざわついた。私は自分の着ていたブレザーを脱ぐと久実の頭にかけてあげる。
本当は大丈夫? とかごめんね、とか色々言葉をかけたかった。けどそれを言ってしまったら感情が一気に溢れてしまいそうで。だから私は久実にもう心配ないよとだけ伝えるだけにした。彼女をこんな目に合わせた女をキッと睨みつけた。
「あなた何者?」
私の前に立ちはだかったのはさきほど久実を嘲笑った女だった。女は先程ブローに数十分はかけているであろう縦巻きの髪を整えたあとで私を上から目線で見下す。負けじと私も語気を強めた。
「この馬鹿げたゲームを終わらせに来たのよ」
「は?」
「次の勝負は私が走る。『身代わり』差し出すならその逆もアリなんでしょ?」
縦巻き女は一瞬けげんな顔をしていたけど、そのうちああ、と声を漏らす。
「会長直々の招待を蹴った女って――あなたのことね」
そう言って上から下から品定めされた私。ふうん、そうなんだ、あなたが、と蔑まれる度に私の不快指数は高くなっていく。つうか会長って誰? 生徒会長? 文化祭は実行委員長だし。まぁ、そのへんよね。
なんて思っていたら私の視界にヤツの姿が割り込んできた。堂々と舞台に上がる様子に周囲がどよめく。口々に囁かれる会長、の言葉に私は初めてヤツの立場を知らされた。急に縦巻き女の声が甘ったるくなる。
「あらぁ、会長じゃないですか。どうしてここに……」
「この女がどうしてもゲームに参加したいというんでな」
「あらあ、そうでしたのぉ? でしたら喜んで迎え入れますわよ」
ねえ皆さん、と縦巻き女はヤツの前でころりと態度を変える。その鼻につくような声に私は辟易した。こいつ、とんでもない性悪だ。
とにもかくも、ゲーム参加の許可は得たので私はその場で靴を脱ぎ、その中に脱いだ靴下を入れる。ブラウスの袖をめくった。ビーチフラッグだと旗に背を向けうつ伏せになるのだけど、ここでは正面からのスタートとなる。それはスカートで参加している私には有難い配慮だった。
裸足のままスタートラインに立った私は一度目を閉じた。深呼吸し気持ちを落ち着け、それから瞼を開ける。遥か先の赤いフラッグが白いベースに変化した。まっすぐに伸びるラインに一瞬だけ懐かしさがよぎる。
今の私にとって十メートルの距離はとても遠い。もしかしたらこの間みたいに転んでしまうかもしれない、そんな不安がよぎる。けど私はそれら全てを頭から振り払った。目の前にあるゴールだけに集中する。
数秒後、ホイッスルが会場を突き抜けた。
スタートの合図と共に足を前に出す。二歩目までは床にぴったりと足裏をつける。そこから先はつま先と踵だけで――予想通り相手ランナーの気配はない。私はフラグまでの距離を一気に駆け抜けた。周りの音が全てかき消される。
あまりにも無我夢中だったから、トマトがいつ投げられていたのかは覚えていない。ただ、ゴール寸前で横からの風を感じたのは覚えている。私は反射的に体を横に倒しスライディングする。右手でフラグの柄を掴むとそれを中心に体を半回転させ動きを止めた。フラグを天上に掲げ、振り返る。周りからの反応は――ない。
嘲笑やブーイングは予想していたが、これは意外だった。ヤツも縦巻き女もぽかんとした顔で私をみている。鳩が豆鉄砲を食らったような顔ってあんなのを言うのかしら。なーんて思っていると、
「ナノちゃんっ!」
久実が突然私に抱きついてきた。
「すごいっ、満点だよ!」
その声を皮切りに客席の声が戻ってくる。出てきたのはおお、という感嘆の声、それから悲鳴にもちかい歓声が響いた。満点の言葉に私は身を改める。紙吹雪が空を舞う。これといった赤い染みはない。そして衝撃らしい衝撃を一度も受けてないことに気がついた。
そうか……満点、か。
「はは」
嬉しくて、思わず声を上げて笑う。清々しい気分が私の体を突き抜けた。
「ナノちゃん超早かった。すっごいカッコよかったよーっ」
久実は容赦ない力で私の首を絞めつけた。湿った空気とともに野菜特有の青臭いにおいが鼻をつく。せっかく守りきったのに服の染みがこっちに移りそうだ。でも久実に笑顔が戻ったからいいかと思う。そしてあとでちゃんと謝まらなきゃとも。
最初に置いた靴を引っ提げる。試合はサドンデスに入っていたから勝負はこれきりだ。私は久実を連れて堂々と舞台から降りようとする。途中、縦巻き女の横を通った。悔しそうな顔に私は少しだけ優越感を覚えたのだが――
「この試合は無効よ!」
……はぃ?
「私見てたんだから、アンタがフライングしたの」
女の身勝手な言い分に私は首を横にかしげた。体張っていただけに私はフライングなんかしてないわよ、と声を張り上げて反論する。頑張って満点出したというのに駄目出しですか。つうか。
「味方がクレームつけるってどういうことよ! ありえないんですけど」
「どうもこうもないわ! この目で見たもの」
「だからフライングなんかしてないって言ってるでしょ!その目腐って――っ!」
私は唇をそっと噛み痛みを堪える。膝に鈍い痛みが走ったのだ。私はスカートのひだを直すふりをして重心を反対の足にかける。でも少しでも動くとどうしても足がふらついてしまう。
私の仕草に縦巻き女が何かを勘付いたらしい。にやりと笑った。まずい。
「このゲームはやり直しよ。私が許すわ。相手チームもランナーを変更して――ああ、さっき優勝したチームのランナーを呼んでそっちに入れなさい。こっちが『身代わり』から本人に変わったのだから、その反対もアリよね。そうしなさい」
ベタなわがままに私は思いっきりドン引きした。ああ、コイツの頭いっぺんかち割ってやりたいわ。いっそのこと豆腐の角ぶつけてぽっくりいってくれないかしら?
縦巻きお嬢は私を蹴落とすべく再試合に躍起になっている。できることなら次の勝負は避けたい。でも周りは身代わりという暗黙のルールに突っ込むどころか、拍手喝采の大歓声だ。もう一回コールが会場をこだまする。相手チームの「身代わり」がスタートラインに配置された。
「さあ、仕切り直しよ」
スタートラインにつきなさい、と言わんばかりの展開に私はぐっと唇を結ぶ。じわじわとくる痛みが額に汗を呼ぶ。でもそこまで挑発されると引き下がるのも躊躇した。隣りにいた久実が不安そうな目で私を見上げる。「もう一回」のループが速度を上げて私にのしかかる。最後、縦巻き女は得意のぶりっこでヤツにけしかけた。
「会長だってもう一度勝負を見てみたいですよねぇ?」
ヤツがちらりと私の方を見る。ここでヤツが頷いたら最後、覚悟を決めるしかない。私は審判の時を待つ。
「確かに、さっきの勝負はなかったことにしたいな」
その言葉に縦巻き女が満面の笑みをこぼした。
「では――」
「というより、この対戦そのものが無効だ」
意外な展開に私も驚きを隠せなかった。縦巻き女がうろたえる。
「そんな、この試合が無効だなんて……信じられません。私、見たんですよ。あの女がフライングする所を――どうして」
「そもそも、この試合に意味があるのか? 最下位を決める試合ほど見苦しいものはない」
「でもかいちょ」
「このゲームの発案者は俺だ。ルールは俺が把握している。俺が無効といったら無効だ」
食い下がる縦巻き女にヤツは冷ややかな視線をぶつける。文句でもあるか? とでも言いたげなヤツに周りの誰もが閉口した。私はそのやりとりを聞きながら、いつぞやの時代の野球審判がヤツと似たようなことを言っていたのを思い出した。この言葉を聞いた時最初はずいぶんな自信家だなと思ったけど、今はその言葉が少しだけありがたいものに思える。
「この件はこれで終わりだ。行くぞヒガシ」
ヤツがおもむろに腕を掴んできたので、私の足がもつれた。鈍い痛みを抱えたままよろけると私のニットを掴んでいた久実が芋づる式に釣れた。半ば引きずられるように会場をあとにする暁学園の最高位と部外者二人。生徒たちの間で微妙な空気が漂っていたのは言うまでもない。後にこれが伝説になったかとかならなかったとか。
とにもかくも。暁学園文化祭で一番盛り上がっていただろう出し物は生徒会長の鶴の一声で全ての試合を終了した。
2013
しばらく歩くと林道の先に古めかしい洋館が現れた。そこは暁学園の中でも別館と呼ばれる所らしい。入口には強面顔の生徒が睨みを利かせていたので、私は思わず躊躇してしまう。
「ここは昔『遊技場』として使われていた所だ。今は学園に一定以上の貢献をした生徒だけが入れるようになっているんだが、今日だけ一般の生徒も使えるように開放している」
「ふうん」
一定以上の貢献というのは詰まる所の寄付金ってやつなんだろう。これだから金持ちは――と、私はこっそり毒づく。
さてさて、この扉の先には何が出てくることやら……私は心の中でナレーションを入れると、仁王立ちしていた生徒たちが扉を開けた。まばゆい光が差し込む。
一番最初に目に飛び込んだのは緑色の盤面だ。そこには数字の書かれたマス目が記されており、コインが山積みにされていた。隣りでルーレットがからからと回っている。かと思えば隣りの机では一人の男性が慣れた手つきで生徒たちにカードを配っているし、奥の方ではスロットがくるくると回っている。テレビでしか見たことのないきらびやかさに私は絶句した。
えー……っと。これはどう見てもカジノ、だよね?
「どうだ? これなら生徒も参加しているし、おまえの言う温度のある出し物とはこんな感じか?」
「いや、これは……」
ある意味熱はある、のかもしれない。けどもの凄く違う気がする。つうか高校にカジノ作るのはアリなんですか? 本当、この学校を運営している人間の顔を一度見てみたいわ。
私は喉まで出かかったもろもろの言葉を必死に飲みこんだ。頭をフル回転させ、場に合った言葉を探す。
「何と言うか、もっと健全な――体を動かす的なモノ、というか……ねぇ」
「なるほど、スポーツだな。ならこっちだ」
私の意志を汲み取ってるんだかいないんだか。ヤツは前へ前へと進んでいく。私がついてくるもんだと思っているのか、一度も振り返りやしない。
フロアの奥までたどりつくと、またひとつ扉が現れた。入口と同様、扉の側にいかつい人達が待っている。彼らの手で観音開きの扉が開かれる。
すると扉の向こう側から紙吹雪が飛んできた。大きな歓声が耳をつんざく――
一体何?
私が紙吹雪を払って中を伺うと、コンサート会場などで見られる階段状の客席が目に飛び込んできた。階下の中央には長方形のコートが二つあって、端に赤いフラグが立ててあった。
コートの周辺は所々に赤い染みがついていて不揃いの水玉模様になっている。
「おお、なかなか盛況じゃないか」
満員御礼の場内にヤツは満足そうな表情を浮かべる。
「これは何?」
「ビーチフラッグの変形と思ってくれればいい。これなら生徒も参加できるし、観客も勝者を予想して賭けを楽しめる」
「ふうん」
ヤツの話によると五人一組のチーム対抗戦で行われるらしい。ビーチフラッグは基本五回勝負。同点の場合はサドンデスとなる。フラグ取りに参加するのはチーム五人のうちの一名で連続でも交代でも構わないらしい。残りの三人は敵のランナー(フラグを取る人)をトマトを投げて妨害する役に回る。トマトに当たることなくフラグを取れば百ポイント獲得だが、トマトに当たった場合は一個あたり十ポイントのマイナスとなる。つまりフラグを取っても十回トマトに当たればポイントはゼロということだ。
投げるトマトの数は特に決められておらず、勝負が決まるまでなら幾つでも投げていいらしい。ヤツはフロアに掲げられた電光掲示板を見ながら状況を私に説明した。
「今手前でやっているのは決勝で奥は最下位戦だな。両方ともサドンデスに入ったらしい」
しばらくしてホイッスルが鳴った。双方のランナーがスタートする。
投げる方は一生懸命だが、走る方が早くて追いつかない。両者肩を並べたままフラグに飛び込む。勝敗が決まった瞬間、悲鳴にも近い歓声が広がった。再び舞う紙吹雪。選手と観客が一体感となった会場がヒートアップする。雰囲気に酔ったのか、私の頬も紅潮した。
「どうだこれは? おまえの眼鏡にかなうか?」
「まぁ……これまでの中で一番マシっちゃマシ、だね」
「そうだろうそうだろう」
ようやく出た及第点にヤツは満足げに笑った。
「他の出し物と比べられたら困る。何を隠そう、これを考案したのは俺だからな」
「へぇ」
「これは他のどの出し物よりもスリリングで面白い。そして盛り上がる。最初におまえを見た時、このゲームに参加するのが一番ふさわしいと思ったのだが――どうだ? やってみる気はないか?」
ヤツの誘いに私は遠慮します、と即答した。確かに発想は面白いと思う。でも詰めが甘い。ぶつけるのが水風船ならともかく何故トマト? そりゃどこかの国にはトマト投げる祭りがあるけど、私が住んでいるのは勿体ない精神が未だ生きている国だ。何だか食材を無駄にしているようであまりいい気分じゃない。だいたい当たったら制服がシミになっちゃうじゃないか。あ、でもこの学園の人達は「制服が汚れたならドレスを着ればいいでしょ」的な考えだろうから、そんな小さなことはどうでもいいのかもしれない。
そんなことを考えながら私は試合をぼんやりと眺めていたけれど――とある一点に焦点が定まる。奥のコートでトマトにまみれになった生徒を見つけた。生徒? でも来ている服が違う。でも見覚えのある顔だ。
「久実っ!」
私は思わず声を上げる。でもそれは周りの声にすぐかき消された。
「ちょ、何で久実があんな所にいるのよ」
私はヤツに久実の居場所を指で示した。でもヤツはといえばああ、あれかとのんびり口調で答えるだけ。
「『奴ら』最初はポーカーの相手が欲しいって言ってたからくれてやったんだが――飽きて今度はこっちに来たのか」
「何それ。下品なことはしないって言わなかったっけ?」
「それは俺の尺で言ったまでのことだ。それにおまえには関係ないことだろ?」
「――何言ってんの?」
「おまえは俺の招待状をあの女に譲渡した。その時点でおまえはあの女を自分の身代りにした。そうじゃないのか?」
ヤツはそれが当たり前だと言わんばかりに声を上げる。私ははああっ? と声を半音上げた。そんなことするわけないでしょうが、と全力で否定する。
そりゃ、ここに来たくなかったから久実にあげたわよ。けど私は行きたい人が行って楽しめばって考えで渡したんだ。そんな身代わりとかで行かせたわけじゃない!
「今すぐ止めさせなさいよ! あんたが考えたゲームなんでしょ?」
私はヤツに向かって叫んだ。だがヤツはそれはできない、と一蹴する。
「おまえがどういう意図であの女に譲渡したかは知らんが、この学園で『身代わり』とは主の奴隷であり相手に何をされても仕方ないという意味合いを持っている。今更違うと言ってもこの学園の中では通用しない」
「そんな」
私は唇を噛む。そうこうしている間にも次のゲームは始まってしまった。久実がフラグを目指して走り出す。もう何本走らされたのか、足がふらふらだ。何故か相手チームのランナーは一歩も動かない。そして同じチームの味方が久実にトマトをぶつけている。不公平な勝負に私は疑問を投げた。答えは久実がいるチームの、トマトを投げている奴らの後ろにいる女が持っていた。女は敵味方に構わずどんどん投げろと命令している。わざとサドンデスに持ちこんでいるんだ。
久実が床に転ぶとパンツ見えてるぞ、とどこからか野次が飛んだ。味方のはずの女に柄を言いあてられ、久実が慌ててスカートで隠す。それを聞いた周りがどっと笑う。彼らの表情は恍惚で満ちていた。女のあざ笑いが怒りを呼ぶ。久実の泣き顔が私の心を揺さぶった。ここにいる全員が異常としか思えない。陰湿でえげつなくて。これは完全なイジメじゃないか!
私は踵を返した。一番近くの階段を降りようとする。すぐにヤツに引きとめられた。
「どこに行く?」
「アンタがやらないなら私が止めてくるの!」
「それは構わないが公務執行妨害とテロの疑いで警察に突き出されるのがオチ」
「それで親友が助かるなら御の字よ!」
警察でも何でも呼べばいいじゃない、私の啖呵にヤツは目を丸くした。そのあと一瞬真面目な顔をしたと思ったら、急に笑い出す。
「面倒事に自らすすんでいくとは。おまえは本当に面白いヤツだな」
「何? それって見下してる?」
「いや。これは褒め言葉だ」
ヤツはそう言って笑いを噛みしめる。そんな無駄をしなくてもおまえ次第であの女は助かるというのに、と続けた。その一言に今度は私が目を見開く番だ。見上げた先にヤツの不敵な笑みがある。
「もともとあの女はおまえの身代わりなんだろ? 別におまえが出ても不自然じゃないってことだ」
どうする? とヤツが問う。
「黙って学園のルールに従うか? それとも友情でも気取って正義のヒーローにでもなるか?」
ヤツはさもおかしげに皮肉をこぼした。でも私はそれを無視する。迷うことなく下へ降りる階段へ向かった。
2013
私がヤツと最初に顔を合わせたのは学園のエントランスと呼ばれるところだった。いわゆる昇降口らしい。先を進むと奥にお洒落な長机が置かれていて、そこに男女三人の生徒が座っていた。おそらくここが受付なのだろう。彼らはヤツの顔を見るなり起立してお辞儀をした。
「この者に来客カードを渡してやってくれ」
ヤツの言葉を受け、私は来客カードを受け取る。
「飲食の際はこのカードを提示すればいい。精算は俺が後日することになっている」
ええと、それっておごりって事ですか?
私はちょっとだけラッキーと思いつつ、カードをポケットにしまった。ヤツの背中を探す。するとヤツはエントランスの先にある回廊を臨んでいた。そこには美術の教科書で見たことのある作品がずらりと並べられていた。それはそれは絵画から彫像から、オブジェに至るまで。
「これ全部レプリカ?」
「まさか。全て本物だ。美術クラブの連中が各国のコレクターに交渉して買ってきたものだ」
「へぇ……って、んん?」
なんかおかしい? 美術クラブって自分で描くじゃなく、買う方なわけ?
私はヤツにその真意を問おうとする。だがヤツがさっさと先に行ってしまったので、その答えを聞くことができなかった。作品ひとつひとつをじっくり見ることなく、その場を通り過ぎる。
次に訪れたのは大理石の階段を上ってすぐの教室だった。どういうわけか古めかしそうな車があって、運転席に座るのに男子生徒たちが列をなしている。
「これはクーペのブガッティタイプ57というものだ。こんな良品はめったにお目にかかれるものじゃない」
車のことに私はあまり詳しくないけど、なだらかで個性的なフォルムは聞かずともレアで高いシロモノなのだろう。ヤツに乗ってみないかといわれたけど、触るのも恐れ多かったので私は外から眺めるだけにした。つうか、どうやって車を運び込んだのかしら?
そのあとも私は幾つか連れまわされた。本場インドのカレーとか、フランス料理とか、高級エステとか……それらの桁違いの値段に私は泡を吹きそうになる。さすがというか何と言うか。普通の私立高でもこんなことはしないだろう、というか。ひとクラスいったいどんだけの予算で出し物運営してるんだ?
ヤツに振り回されて一時間弱、私の頭は許容範囲を遥かに超えてショート寸前だった。ようやくたどりついた英国喫茶でお茶を頼んだ私は円形のテーブルに顔を伏せる。一気に疲れが押し寄せた。隣の席ではここの紅茶は私が現地に足を運んで選んだのとか、このお菓子作るためにパテシエを呼んだとか、自慢話が聞こえてくる。私はそれを左から右へ流すと、届いた紅茶に手を伸ばした。
「どうだ。ウチの学園祭は。すごいだろう」
紅茶を飲んだあとで、とにかくすごい、とだけ答えた。私の評価にヤツの口元が上がる。
「それは褒め言葉として受け取っていいのか?」
そこで素直に頷けば、遠回りすることもなかったのかもしれない。でも、私の顔は嘘をつけなかったらしい。
「何だ、何か不満でもあるのか?」
「そんなこと――ないけど」
私は煮え切らない言葉を吐いてからティースタンドにある菓子をひとつついばんだ。ここのケーキはスポンジがしっとりとしていて私好みである。とても美味しい。美味しいのだけど。
「文化祭って言葉からはすごくかけ離れた感じがする」
「どういうことだ?」
「すごいんだけどぐっとくるものがないというか――体温を感じられない?」
私はこれまでに見た場所を振り返った。エントランスで見た絵画は確かにすごいものばかりだった。けど、それはかの有名な人達の作品であり、生徒たちが描いたものではない。珍しい絵画や彫像を集めて並べました、ってだけじゃ美術館と何ら変わらない。それは次に見た車も一緒だ。
この英国喫茶を含めた飲食やエステもそう。給仕や裏方の仕事はどう見ても大人としか呼べない人達(ここの教師なのかは分からないが)がやってるし、生徒たちは客として食べるだけ。紅茶をたしなむ女子高生たちは一見きらびやかだ。でも、歯の浮くような台詞が薄っぺらいものにしか聞こえない。そりゃ、紅茶や食材はそうそうないものかもしれない。でもそれを調達した自分はすごいんだって偉そうな口を叩かれても、ぴんとこない。それは相手の顔が全然見えないからなのかもしれないけど。
私の中にある文化祭のイメージは机を繋げてクロスを敷いた喫茶店とか家庭用のタコ焼き機を使った縁日とか、暗幕を張って暗くしたお化け屋敷とか、そういったものだ。廊下の壁にはそれぞれの宣伝ポスターが不揃いに貼られたり風船や紙で作った花が飾られたり。とにかくごちゃっとしている、そんな感じ。
素人が作るものだから、食べ物に焦げたものが入ったり失敗したりする。内装だって段ボールや廃材を使ったりするからチープさが否めない。でも一生懸命作りました的な、あの手作り感が心を引きつけるのだ。
「つまりおまえは、ここの生徒たちが積極的に参加してないのが気に食わないと」
「気に食わないとは言ってない。ここの昔からの校風かもしれないし」
私は文字通りお茶を濁す。これ以上重箱の隅をつつくつもりはなかったし、早く久実を連れて帰りたい。そろそろ久実の所に連れて行って欲しいんだけど、と私は話を切り出す。だが、ヤツの耳にその声は届かなかったらしい。
「分かった。おまえが気に入りそうな所へ連れて行こうじゃないか」
何をどう思ったのか、ヤツは息を巻いていた。席を立ったヤツについて来い、と言われたので思わず嫌、と言いたくなる。だが、この学園はあまりにも広すぎて今自分がいる場所が分からない。コイツと離れたら絶対迷子になって外に出られない。
残念ながら久実の居場所を知ってるのは目の前にいるヤツだけなのだ。
私は渋々と席を立つ。のろのろとした足取りであとをついていくしかなかった。
2013
ヤツの目的はあくまでも私だ。私がヤツとの約束を果たしさえすれば久実は助かるかもしれない。
私はベッドから降りると壁に吊るしてあった制服をそのまま着こんだ。簡単に身支度を整え電話から三十分も経たずに家を出る。太陽の日差しがまぶしい。一瞬目がくらんだ。
暁学園は私の通う高校の二つ前の駅が最寄りだ。私は電車に乗り込む。普段降りない駅の改札をいっきに抜ける。そこから先の道は分からなかったので、私は交番を訪ねだいたいの場所を聞きルートを確認する。あとは携帯の地図ナビを頼った。最悪タクシーを使おうかと思ったけど、徒歩で行ける距離でよかった。
この間の住宅地とは違う、いかにも高そうな家の並びを通り抜けると、塀が私を迎える。私の背の三倍はあろう塀の上には鉄線が張り巡らされていた。刑務所の前の道を歩いているような物重しさが私にのしかかる。
角を曲がり、塀沿いの道を三分の一ほど歩くと重厚な門扉が私を迎えた。門柱に暁学園の看板が掲げられている。門扉は塀と同じ高さの壁にも等しく、外から中の建物を見ることはできない。壁の頂上を見上げると、監視カメラらしきものが確認できた。
勢いでここまできちゃったけど――さてどうしよう? 一度久実の携帯に連絡を入れた方がいいのかしら?
私がどうしようか悩んでいると、モーター音のような響きを耳にした。頭上の監視カメラが私の顔を認識したのだろう。重い扉がゆっくりと開かれる。私の視界に広がったのは広大な針葉樹の並びと砂利道。どこかの避暑地を思い起こさせるような林道が私を迎える。私は一度息を吸い込むと、握っていた拳に力を込めた。
一歩二歩と学園の敷地に踏み入る。今日は文化祭だと聞いていたのに、それらしきモニュメントやアーチは一切なく、人の声すら届かない。聞こえるのは私が砂利を踏む音と枝に止まっている雀の鳴き声だけ。恐ろしいほど静かな学園内に私はごくりと唾をのみこむ。
まさか、この間みたいに無人ってことはないよね?
私は一抹の不安を抱えながら、奥へ奥へと進む。緑のトンネルを百メートルほど歩くと、林道は終点を迎えた。まばゆい光が差し込む。最初に目に飛び込んだのは乳白色の輝きだった。エントランスや廊下に立てられた柱や窓に装飾された模様は美しい。突然中世のヨーロッパに飛ばされた気分になった私は口をぽっかりとあけてしまった。ゆっくりと建物に近づき、壁に手を触れてみる。これ、レンガじゃなくて大理石っぽいんですけど。つうかどんだけ金かかってんだ?
目の前に佇む建物に私はただただ圧倒される。だが、そんな浮ついた気持ちは早々に打ち消された。入口でヤツが仁王立ちしている姿を見つけたからだ。
「遅い」
ヤツはしごく不機嫌そうな顔で私を迎える。
「こんなにも俺を待たせたヤツは生まれて初めてだ。おまえは何様だ」
「人質にされた親友を取り返しに来た人間ですが、何か?」
歯に着せぬ私の返答にヤツの頬がぴくりと上がった。
「俺がいつ誘拐まがいのことをした! だいたいおまえが約束を守らないのが悪いからで」
「名も言わない男の誘いに乗るほどバカな人間じゃありません」
「何だと!」
「とにかく、アンタの望みは叶えたんだから久実を返してよ。これは最大限の譲歩よ」
私は話をいっきに畳んだ。ここでヤツと揉めても時間の無駄。私はヤツ適当にあしらって久実を連れて帰ろうとする。そのはずだったのだけど――
「無理だな」
ヤツはあっさりとそれを反故にした。
「な、無理ってどういうことよ」
「俺にはどうしようもないってことだ。おまえが来るってわかった以上、あの女はもうどうでもいい存在だったんだが――『奴ら』がそれを許すかどうか」
「奴ら?」
私はいぶかしげにヤツを見上げた。奴らって何よ。この間みたいに白昼堂々銃ぶっ放す奴らとか?
「ちょっと。あんたら久実に何かしたとか?」
「ここは由緒ある暁学園だ。おまえが想像するような下品なことはしない」
「だったら!」
「まぁ焦るな。まずは学園の中を案内してやろう」
そう言ってヤツはにやりと笑った。
2013
ウチの学校は中の下をいく偏差値だけど、赤点のラインは他の学校よりも十点高い。だから試験前は皆必死で勉強する。それはそれは過去の失態や無礼を忘れるほどに。そういうことで、私も例外に漏れることなく勉強に集中した。
その後中間試験は予定通り行われ日程を全て消化した。最後の科目を終えた私はまっすぐ家に帰る。明日は休み。だらだらしてても誰も咎めたりはしないだろう。私は削られた部分を補給すべくベッドにもぐりこむ。すぐに深い眠りについた。
次に私が目を覚ましたのは翌日の午後だった。カーテンの隙間から光が差し込む。ベッドサイドで携帯がぶるぶる震えている。振動があまりにもしつこいので、私は布団の中に携帯を引きずり込んだ。しょぼしょぼした目をこすり画面を確認する。蛍光色の指先に久実の名前があった。
「ナノちゃん寝てた?」
「今起きた……なぁに?」
「えと、あのね――」
そう言って受話器の向こうで久実が喋り始める。でも向こうの電波がよろしくないのか、声が飛び飛びだ。
「もしもし? あのー、声が聞きとりずらいんだけど」
「身代わりをよこすとは大層な御身分だな」
突然耳元がクリアになる。割って入った低い声は久実のものじゃない。私は目元をひきつらせた。思わずアンタ誰? と聞いてしまう。次の瞬間、つまるような声が耳元に届く。
「誰、って――おま、俺のことを忘れたのか?」
「忘れたも何も、知らないものは知らないんだけど。久実の彼氏か何か?」
それとも電波が悪すぎて回線が混乱したのかしら? 私は一度欠伸をしたあとで携帯から耳を離す。自分の携帯に異常がないことを確認すると再び携帯に耳をあてた。でも聞こえてくるのは男の罵声だ。
「おい、アズマだかヒガシだかのハナ! 命の恩人にその態度は何だ。おまえは阿呆以下の存在か」
「はぁ?」
私はすっとんきょうな声を上げる。
「命の恩人って何。顔も知らないアンタに助けられた覚えなど全くないんだけど」
「おま……俺の顔も忘れたのか?」
信じられない、と嘆く男に私は困ってしまう。丁度その時、ぼさぼさの髪の毛が顔についた。頬に手が触れる。その瞬間、かすかに残るかさぶたに気づいた。すっぽ抜けていた記憶がブーメランのごとく返ってくる。思わずあああっ、と大きな声を上げた。被っていた毛布がふっとぶ。
「ふんぞり返った俺様男っ。えっと名前は――何だっけ?」
「ニシだ!」
そこでヤツが初めて名を名乗った。神の一族とは無関係と思いこんでいた私は思わず西田? とツッコミそうになったが、すぐに違うと脳みそがツッコんだ。ここでボケたら収集がつかないだろう、なんて叩かれながら。
私は一度姿勢を整えるとその節はどうも、と形式上のお礼だけ述べた。受話器からヤツの満足げな頷きが耳に届く。相変わらず高飛車な、私はこっそり毒づいた。
確かに助けてもらったことに感謝はしている。だけど私としてはそれで終わらせたかったのが本音だ。本心としてはヤツのことに首をツッコミたくないなぁ、という気分だった。でも親友が巻きこまれてしまった以上は足を踏み入れるしかない。
「それで、私の友達に何がおきたんでしょうか?」
私は口調を変え、ヤツに問いただした。一体久実に何が起きたというのだろうか。
ヤツの話によると、招待状には案内状とカードが入っていたと言う。カードはスーパーや駅で使うようなプリペイドになっていて、学園内の飲食や買い物の精算に使えるようになっていた。 また、受付に頼めば持ち主の通過時間や招待状を渡した生徒が誰なのか調べることができるらしい。
一般公開の今日、昼を過ぎてもなかなか来ない私にヤツは肝入っていた。そして学園に私が来ているかどうか受付で調べてもらったらしい。でも、全くの別人が通り抜けたからこれはどういうことなんだという話になり――学園内はかなり大騒ぎになったらしい。暁学園の生徒の親は著名人や年商ン億という実業家や金持ちたちだ。そんなセレブを恨む輩少なくない。一般公開される学園祭は他人を受け入れる唯一の機会。厳重なセキュリティをうたっても生徒の誘拐や学園の乗っ取り、テロなどが起きてもおかしくはないのだというのだ。
つまり――久実はそのもろもろの容疑をかけられているのである。
「というわけで、ナノちゃんお願い。今すぐ暁学園に来て」
今にも泣きそうな声が私の耳に届いた。現在久実は暁学園の生徒指導室に連行されているという。このままだと両親や学校に通報されてしまうらしい。私は久実に招待状をあげてしまったことを後悔した。これは自分で蒔いた種なのか、はたまた運が悪いだけなのか。
私はだらりと垂れた前髪をかきあげた。