2013
伯母は急性垂炎と診断され、すぐに手術が必要と診断されたらしい。伯父さんは早くに他界していたし、従妹の旦那さんはその日出張で遠く離れた都市にいた。近くで子供の面倒を見る人が私しかいなかったのである。
二人で夕飯を食べていると、従妹から手術が無事成功したという連絡が入った。私は電話を切ったあとで、従妹の子供――ももちゃんに声をかける。
「ももちゃん、おばあちゃんのおなか痛いの、治ったって」
「ホント?」
「しばらく病院にお泊まりしなきゃならないけど、すぐ元気になってお家に帰ってくるって。ももちゃんのお母さんももう少ししたらここに迎えに来るよ。お母さんが迎えに来るまでまだ時間あるから、その間におねえちゃんとお風呂いこうか?」
「うん」
私はももちゃんを風呂場へ案内した。服を脱ぎ、シャワーの栓を開ける。先にももちゃんの体を洗ってから自分の体を洗った。二人で湯船に浸かると狭い浴槽にミルク色のお湯が溢れてゆく。
最初はアヒルの玩具であそんでいたももちゃんだけど、しばらくすると湯気でけぶった鏡に落書きをはじめた。小さな指を使って動物を描く姿は真剣そのもの。小さいお尻がふるふると動くたびに私は微笑んだ。ああ、小さい子のお尻ってなんて可愛いのかしら。そんなことを思いながら私は湯船につかり、天井を仰ぐ。すると天井が急に明るくなった。細い光がゆっくりと円を描き、天井にぽっかりと穴が開く。そこから人の首がにょきっと生えてきた。
え? え? えええええっ!
「おー、風呂にはいっていたのかぃえ」
体を半分だけ覗かせてヤツは言う。へんてこりんな語尾をつけてやってきたのは如何にもな格好をしたジジィだ。私はありったけの悲鳴を上げる。側にあったアヒルの玩具をヤツに投げつけると、ヤツの顔面に命中した。アヒルは一回転したあと、優雅に着水する。
「いたた、何するんじゃ」
「信じらんないっ。何てとこから現れるの!」
「相変わらず師匠への敬意もないヤツじゃのう」
「敬意もへったくれもあるかこの痴漢っ! こっちに来るんじゃねぇーっ!」
そう言 って私は湯船に体を沈める。普段は何もいれないけど、今日入浴剤を入れておいてよかったと心から思った。でなかったら私の裸が丸見えになっていた。
上半身だけ出して様子を伺っているヤツは一応私の師匠だ。何の師匠かというと――魔法使い。ある日、私はヤツに魔法使いにならないかとスカウトされたのである。なんでもヤツのいる異世界では後継者不足なのだとか。
最初は怪しい何かの勧誘かと思ったけど、一度命を助けてもらったし目の前で空を飛んだのだからこりゃ本物だと信じるしかない。修行も週二程度でいいというので私は弟子入りを了解し契約を結んだ。それが人生最大の間違いと気づいたのはその一週間後だ。
魔法使いとは名ばかり、ヤツは術を教えるのを渋るし、私に雑用を押しつける。果ては私の家で菓子をついばみテレビを見ながらごろ寝をするのだ。これは詐欺としか言いようがない。
とにもかくも、私はヤツとの師弟契約をどうにかして解除したいのである。でも契約に逆らったりヤツに暴言を吐けば「お仕置き」が待っていて、私はいつもそれに屈することになる。
今日も今日とて、奴はお仕置きじゃぁーと声を上げていた。
私は契約を結んだ時につけられた腕輪を見る。ここに光が宿ったら最後、100万ボルトの電流が湯船に流れてしまう。水は電気を通すから――つまり一発で感電死だ。
腕輪が光を放つ。防御魔法を唱える余裕はない。もう駄目、と思い私は目をつぶるが、次の瞬間、腕の光が消えた。あーっと大きな声がヤツの耳をつんざいたからだ。
「だんごこーえんのおじーちゃん」
ももちゃんは天井にいるヤツを見て目をきらきらとさせていた。私は一瞬何で?って思ったけど――ああそうか、ももちゃんはヤツと面識があったんだっけ。私は小さな救世主にこっそり感謝した。
「おおそなたは、もも、じゃったな。久しぶりではないか。元気にしてたか?」
「うん。でもおじいちゃん、なんでこんなところにいるの?」
「そこにいる馬鹿なちんちくりんに用事があってのう」
馬鹿なちんちくりんは余計だジジィ、と私は突っ込みたくなったが、口にしたらまたお仕置きされるのでそこは口を閉ざしておいた。子供の無邪気な質問は続く。
「おじーちゃん、なんでうえからでてきたの? そこにトンネルがあるの?」
「そうじゃ な。トンネルがあるんじゃ」
「それってどこにつながってるの?」
「魔法の国――とでもいっておこうか。ワシはな、超一流の魔法使いなんじゃ」
魔法使い、その一言にももちゃんの目がきらんと光ったのは言うまでもない。今、この子のマイブームは魔法少女なのだ。
「おじーちゃん、ほんとうにまほーつかいだったんだ。 じゃあ、またいろんなまほーおしえて」
「おーおー、いくらでも教えてやるとも」
ちょっと待て。それは問題発言じゃないか?
ヤツは公園で遊んでいた三歳児に攻撃魔法を教えた前科がある。その上自分の弟子を差し置いて指南するだと? ありえん。やっぱりヤツは詐欺魔法使いだ。今度こそ訴えて契約破棄してやるんだから!
私はぎりぎりと自分の歯 を軋ませた。一方ももちゃんはといえば、まほーまほーと大興奮。こんどはそらをとぶまほうがいいなぁ、なんてリクエストまでしている。
とにもかくも、空気が一度緩んだので私はため息を一つついてから、あのさぁ、とヤツに言葉を放った。
「用事があるならお風呂出てからにしてくれない? つうかとっとと消えろ!」
「そういうわけにもいかなくてのう。緊急事態なんじゃ」
「緊急事態?」
私はヤツの言葉を繰り返す。見上げるとヤツが真面目な顔で私を見ていた。私は持っていた片手桶を一旦下ろす。浴槽の縁に置いてから、ヤツの話をとりあえず聞いてみることにする。
「詳しい事は向こうで話すが、我が国最大の危機なのじゃ。今、国中の魔法使いとその弟子たちが城に召集されている。魔法を使える者が多数必要でな。我々もそちらに向かわなければならない」
ヤツの話に私はふむ、と唸る。
「とりあえずわかった。分かったけど――もう少しだけ待って」
場所が場所だし服くらい着させてよ、と私は言葉を続けるが、全ての言葉を言い切る前に湯船から強制退去された。
「とにかく急ぎなんじゃ。このまま飛ばすぞ」
「ちょ、裸のままでそっちの世界に行くの? やめてよーっ!」
「別にそなたの裸など誰も興味持たないわい」
「そういうことじゃなくて!」
人目のある所に出たらどうするの? 痴女だ変質者だと大騒ぎになるじゃない。詐欺魔法使いの弟子が変態なんて噂が回ったら……それは絶対にイヤーーーっ!
私はビーナスの誕生のごとく 、要所を手で隠し、体をくねらせながら宙を舞う。それを見ていたももちゃんは大はしゃぎだ。
「わー、おねえちゃんおそらとんでるー。いいなぁ。もももおそらとびたーい」
「おおそうか。じゃあもももワシの住んでる世界へ行くか?」
「いきたーい」
ももちゃんは諸手を上げて要求する、私はふわふわ浮きながらそれだけは止めて、訴えるけどのれんに腕押し。好奇心満載の子供を止めることはできない。
ヤツは自分の持っていた杖を軽く回す。ももちゃんの体が浮いた。ももちゃんはくるりと一回転し、きゃっきゃと笑う。
「たーのーしいー」
「ふぉーっふぉ、楽しいか。それはよかった」
「全然よくないっ!」
私は下ろせとぎゃあぎゃあわめくが多数決には叶わない。天井の穴から風を感じる。私達は掃除機の如く吸い込まれるとヤツの住んでいる異世界へ飛ばされた。
(使ったお題:70.もう少しだけ待って)
2013
店の表扉を開け通りに出る。ここは坂の上にあるから彼女の姿を見つけるのは簡単だった。
私は南さん、と声を張り上げるが――後ろからクラクションが鳴り響く。振り返ると、黒塗りのベンツがものすごい勢いで突っ込んできた。カーブを描き私の前に車を止める。このシュチュエーションは何度も体験した。車の扉が開き、中から人が降りてくる。現れたのはもちろんニシだ。私は思わず、何やってんのよ! と声を荒げる。
「どーして電話に出ないのよ。」
「電話じゃ何だから直接会いに来た」
「は?」
私は素っ頓狂な声を上げる。だって、着信残したのはほんの数分前ですよ。あんたの家からここまで時速何キロでベンツとばしたんですか?
って。そんな場合じゃない!
「南さ――じゃなくて! 紗耶香さんが日本を離れるって」
「知っている。父から聞いた」
「追いかけなくていいの? 彼女のこと、好きなんでしょう?」
ニシにとって彼女は特別な存在だ。せっかく再会できたというのに。このまま彼女を行かせてしまって、本当にいいの?
私は早く、とせかすが当の本人は動かない。ニシの決意は固かった。
「この間別荘で紗耶香に言うべきことは言った。たぶん――向こうも同じだ。これ以上会う必要もない」
「そうかもしれないけど」
「そんなことよりも、お前にとっておきの話がある。あの夜一体何があったのか、聞きたくないか?」
ちょ、何でこんな時にそんなこと聞いてくるわけ?
私は車の向こう側をちらりと見た。坂の下に南さんが見える。姿はだいぶ小さくなっていたが、走れば間に合う距離だ。私はニシを振り切ってそちらに向かおうとした。でも一歩踏み出す前にニシが逃がすまいと自分の足を私の前に置いた。それに引っかかった私は盛大に転んでしまう。
「どうした? 聞くのか? 聞かないのか?」
「聞くも何も! なんっつーことするのよ!」
打った膝をさすりながら私は言う。何これ、この間殴ったお返しですか? 見上げた先にあるのはニシの余裕ぶった顔。もう一度坂の下を見れば南さんの姿はどこにもない。散々悩んだ後で選んだのは自分の欲求の方だった。何だか上手くあしらわれた気がしてならないけど、仕方ない。南さんの姿を見失った以上、それはそれと割り切るしかないのだ。
バカ高い車の中に案内された私はふかふかのシートに座る。向かいにはコーヒーをたしなむニシの姿があった。
「で? おまえが知っているのはどこまでだ?」
ニシに聞かれ、私は渋々話す。私が聞いていたのは二年前の火災についてだ。あの日ニシの車には細工がされていたらしい。車に用意されたお茶は睡眠薬が入っていて、ニシが眠っている間車はわざと遠回りの道を走っていたのだと言う。当時の運転手はニシの父親の指示で動いていたのだと北山さんは言っていた。
洗いざらい話すとニシがなるほど、と言う。そして閉ざしていた口を開いた。ニシの話が私のそれと絡むと、ぼんやりとしていた事件の輪郭がはっきりと浮かび上がる。
二年前の事故の一端に紗耶香さんのお父さんの仕事が絡んでいたこと、ニシの父親が裏で糸を引きワクチンの特許を横取りしたこと、南さんはそれを取り返すためにニシを気絶させ、脅迫したこと――
ニシが内輪のパーティを開くと言った時、南さんはニシの父と取引することを考えたのだと言う。それはニシが警護を解いていたことで予想以上の展開を見せたわけだが、世の中そんなに甘くないわけで。 ニシ略取計画はニシの父親の部下たちに阻止された。南さんはその時狙撃され、肩を怪我したのだという。
「父はワクチンの特許を返還するつもりはないらしい。紗耶香にもはっきり言ったそうだ。今回のことは紗耶香に否があるが、父は結局それを不問にした。それどころか『ある条件』をのめば蓮城を名乗ってもいいと紗耶香に言った」
ある条件? 私はニシの言葉をオウム返ししたあと――はっと する。もしかして彼女が今置かれた状況がその条件、ということ?
「紗耶香の父が今度働くのは大学の研究室だ。薬学に力を入れていて、ウチが経営する病院とも連携している。紗耶香も高校を卒業したらその大学に通い、いずれは父親と新薬の研究を続けてもらうだそうだ。家は大学の近くに用意したらしい。場所は首都から離れているが、最新のセキュリティで不自由はしない。外出時は家族一人一人に護衛をつけ安全を保障するらしい」
「つまり、ニシ家の監視下で生涯を遂げろってこと?」
「だな。もともと父は紗耶香の父の才能を高く評価していたし、それを完全に捨てるのは惜しかったんだろう。あるいは紗耶香の度胸を高く買ったのかもしれない」
「こう言っちゃあ何だけど、ニシのお父さんって極悪よね。人の弱味につけこむし、最悪だわ」
私は思わず毒を吐いてしまったけど、その言葉をニシは否定しなかった。
「確かに父は非情な人間だ。自分の利益の為なら相手が家族でも平気で傷つけるだろう。あいつと同じ血が流れていると思うだけで胸糞悪い。今回のことで俺は奴を一生恨むだろう。奴が何を企んでいるのかは分からない。でも現実として紗耶香の父親は研究を続けられるわけだし、母親がテロリストに怯えることもなくなる。紗耶香は家族の幸せを何よりも望んでいたから――今回はそれが最善だったのだと俺は思いたい」
「そう、ね」
「それに海外と言っても飛行機ですぐの距離だ。必要な時がきたらいつでも会いにいける」
それはニシらしい答えだった。そうか。ヘリを所有してるんだから飛行機やジェット機を持っていておかしくない。つまり私だけが焦って空回りしてたってことですか。
ひととおりの話を聞き終えた後で私はひとつため息をついた。ニシのせいで災難に巻き込まれるのは何時ものことだけど、今回は事がでかすぎた。まさか国を揺るがすテロ事件まで起こっていたなんて。私の頭は今にもパンクしそうだ。
私は車の窓から彼女が先ほどまで歩いていた道を見据える。二年前、彼女は自分の名を捨てなければならなかった。大好きだった幼馴染とも突然別れなければならなかった。それはどんなに辛かったことだろう。
彼女が選んだ道が正しいのかどうかは分からない。けど、できることなら幸せに繋がる道であってほしい。願うのはそれだけだ。
「ところで――ヒガシ。お前にひとつ聞きたいのだが」
「何?」
「おまえは俺のことが好きなのか? 嫌いなのか?」
「は?」
「これまでお前は俺のことを好きだと思っていたのだが、最近お前の気持ちが分からなくなった」
「一体何のことをいってるの?」
私がいぶかしげな顔でいるとニシはこれだこれ、と頬に残る痣を見せつけた。
「この間おまえは俺をグーで殴り飛ばしたじゃないか。愛情があるなら平手じゃないのか? 親愛なら手加減するんじゃないのか? 何故グー? 俺本当はお前に嫌われていたのか? この一週間、それがずっと気になって仕方なかった。でもお前は一度怒ったら頑固になるし俺の話を聞いてくれるかどうかも怪しくて。結局今日まで聞くことができなかった」
何ですかそれは。え?
私はてっきり南さんのことで気落ちしているんじゃないかと思ったのに。そんなことで学校を休んでいたわけ? 私は頭がくらくらしてきた。ヤツの思考は 宇宙人並みだ。確かに誰かさんのせいで私がニシに好意を持っているということになってしまったが、それはとんでもない誤解である。
「誤解があるようだから言っとくけど、私はあんたに惚れることは絶対にない、一生かかってもあり得ない!私はあんたのこと――」
嫌いだ、と言おうとして私はふっと口を閉ざす。確かにうっとおしい奴だけど、勘違い男だけど。最近は挨拶もするし毛嫌いするほどではないことに私は気づいていた。もしかしたらニシの言動に耐性がついたのかもしれない。あと、紗耶香さんのことは流石に気の毒で同情もした。行方が分からなくなった時は心配もした。これまでは顔見知り以下だったけど、今は顔見知り以上友達以下位までランクを上げていいかもしれない。
「まぁ。出会った頃ほど嫌いでは……なくなった、かな?」
私はたどたどしく言葉を述べる。その回答にニシが目を輝かせた。
「つまり俺はお前に嫌われてないということだな?」
「あ、でも好きとも違うからね。そもそも二択で聞くのがどうかと」
「そうか。ヒガシは俺の事が好きなのか」
「だーかーら。違うっていってるでしょ!」
私は勘違い男の頭をぺちんと叩いた。(了)
(使ったお題:43.とっておきの話)
本日で東西コンビの話は終了。ここまで読んで頂きありがとうございます。明日からは別の新しい話が始まります。今度こそ10話完結……のはず。
2013
ニシの別荘に飛び込んだ時はすでに祭りの後だった。
私達は家の中に足を踏み入れる。リビングに入るとそこは異様な空気に包まれていた。テーブルの上の皿のほとんどは綺麗に平らげられている。ナイフに残った生クリームからは甘い香りがこちらにも届いてくる。見るからにここで小さな宴が行われていたのが分かる。
その一方でこの場にそぐわない景色も見られた。窓ガラスは派手に割れているし、無数の足跡が床に散らばっている。よくよく見れば血をこすったような痕も見つかった。血の匂いが鼻をかすめる。
一体ここで何があったの? だんだんと冷えていく自分の体を抱きながら、私たちはニシを探す。家の中をひととおり回った後、もう一度リビングに戻ると、外にぼんやりと浮かぶ人影を見つけた。ニシは壊れた窓ガラスの向こう側――ウッドデッキで月を見上げていたのだ。
私と北山さんに安堵の表情が浮かぶ。
「晃さん……無事だったのですね。怪我は?」
「別に、たいしたことはない」
ニシは北山さんの心配とはうらはらにっそっけない態度を見せていた。私は辺りを見渡す。ここに居るのはニシだけじゃない。
「南さんは? 一緒にいたんじゃないの?」
「南亜理紗は――消えた」
その言葉に私の心臓がどきりとうずく。先ほどの血を思いだした。
「まさか、死んだ――とか?」
「そうだな。死んだと言うのが正しいのかもな」
ニシはさも可笑しそうに笑う。その呑気で他人事のような態度を見ていたら血の気も引くどころか、無性に腹立たしくなった。私はニシの前に立つ。気づいた時にはニシをグーで殴りとばしていた。
「あんた……自分が何したか解ってる? 自分の命危険に晒して人に散々心配かけて。こっちは気が気じゃなかったんだから! なのにそれしか言えないの? 申し訳ないって気持ちはないのかこの馬鹿っ」
私は一気に言葉を吐くとその場にしゃがみこんだ。そして一呼吸おいたあとでもう一度南さんは何処、と尋ねる。もし彼女が現れて、ニシと同じ反応をしようものなら一発殴らせてもらおうと思った。けど、ニシの返事は何一つ変わらない。
「南亜理紗はもういない。彼女はやっと、本当の自分に戻れたんだ……」
ニシはそれだけ言うと、口を閉ざしてしまった。それってどういう意味? 私が詰問するとふいに肩を掴まれる。振り返ると北山さんが首を横に振っていた。
「今はそっとしてあげましょう」
「でも!」
「晃さまにはあなたの気持ちが十分届いているはずです。でも今それを受け止める余裕はないのかもしれない――だから」
北山さんに諭され、私はニシに詰め寄ることを諦める。私がぐっと唇を噛み締めていると、ニシは私に背を向けた。迎えにきたヘリに向かって歩いていく。すぐに北山さんがついていくものだから、私は取り残されないよう追いかけるしかなかった。
――その日、私が帰宅したのは日がしらじらと明けた頃だった。高校生の娘が堂々と朝帰りをしたものたから家族は大騒ぎだ。送ってくれた北山さんが事情を説明してひととおり両親は納得してくれたけど、それでも非常識だと叱りを受けた。くそう、ニシのやつ。学校で会ったらたたじゃおかないんだから。私は睡眠不足の頭で学校に行きニシの登場を待ったけど、その日からニシは学校に来なくなってしまった。
そして明日からいよいよ夏休みという日、私はバイト先で南さんの姿を見た。
一週間ぶりに会う彼女は以前よりも少し痩せた気がする。でも顔色は悪くない。彼女は私を見つけると真っ先に声をかけてくれた。
「ヒガシさん久しぶり」
彼女の挨拶に私はこんにちは、南さんと返そうとした。でも、途中でふっと思う。
私は彼女の正体に気づいてしまった。ここは紗耶香さん、あるいは蓮城さん、とでも呼べばいいのだろうか? でもいきなり呼んだら不審がられないか?
さあ、どっちで呼ぼう――そう考えあぐねているとスタッフルームの扉が開いた。従業員が現れ、南さんはすぐに身を引くが、通路が狭いせいで相手と軽く肩がぶつかった。相手がごめんなさいと謝り彼女が大丈夫ですと返事をする。
従業員が去った後、南さんが肩を押さえた。痛みをこらえてる、そんな感じだ。
「肩、痛いの?」
「大丈夫、ちょっと怪我しただけだから」
南さんが静かに口元を上げた。寂しそうな微笑みだ。その憂いを帯びた表情を見ていると聞かずにはいられなくなる。
「あの日、別荘で一体何があったの?」
「晃くんから何も聞いてない?」
「ニシは……一週間前から学校を休んでるから」
「そっか」
気がつけば彼女はニシのことを「晃くん」と呼んでいた。それを聞いて私はああ、やっぱりこの人が紗耶香さんなんだな、としみじみ思う。
「簡単に話せば私が馬鹿なことをして、その報いを受けた――ってとこかな? 話すと長くなるから、詳しい事は晃くんに聞いて」
それが出来たらどれだけ楽かと私はこっそり思う。二人の間には他の人が立ち入れない何かがある。それを詮索するのは野暮だというのも分かっている。でも、今回のことは言い訳の一つぐらいあってもいいんじゃないかと私は思っていた。南さんはともかく、ニシにおいては捜索に自家用のヘリまで出動したのだ。これで何もありませんでしたと言われたら周りは本当やってらんない。私や北山さんの労力は一体なんだったんだって思ってしまう。
結局、私が本当に聞きたいことはあっさりと棚上げされ、別の話題に移された。
「今日はお別れを言いにきたの。父の仕事の都合でね、しばらくの間日本を離れることになったの。さっき店長にもその話をして――これから空港に向かう所」
「空港って、今日発つの?」
「夕方の便でね」
短い間だったけど色々ありがとう、そう彼女は言うと私に小さな箱を差し出した。それは前にニシがくれたマカロンだ。淡い色のパッケージが今はとても懐かしいものに思える。 私は箱を受け取ると、彼女に尋ねた。
「ニシにはそのこと、話したんですよね? ちゃんとお別れ言ったんですよね?」
その質問に彼女は微笑むだけだ。それはイエスともノーとも取れる表情で、私は困惑する。
「今度晃くんに会ったらよろしく言ってたと伝えて。私は大丈夫だから、って」
じゃあね、と言って彼女が踵を返す。颯爽と歩く彼女の後姿は凛としていてとても美しい。でも私の中のもやもやは何時までたっても晴れやしなかった。
携帯に設定した仕事開始のアラームが鳴る。私にはこれから仕事が待っている。そう、動かなきゃ。もっとバイト代貯めて、自分にご褒美を買わなきゃ。
でも――
私はくるりと踵を返すと、スタッフルームに飛び込んだ。ロッカーから自分の鞄を出しくるりとひっくり返す。中からは色々な物が出てきた。置きっぱなしにしていた教科書に今日貰ったばかりのプリント、ペンケースやポーチ。そしてくしゃくしゃに丸められた紙が落ちた。私はそれを拾い丁寧に広げる。それはニシに初めて会った時に渡された名刺だった。歪んだ数字を拾い上げ、携帯に打ち込んでいく。数回コールが鳴るがすぐに留守電に変わった。
あの馬鹿。何やってんのよ。
私は仕方なく文字を打ち込んでメールを飛ばす。携帯をしまうとバイトの制服のまま外へ飛び出した。
(使ったお題:66.さぁ、どっち)
2013
「最初は空き巣が入って、何度鍵をつけ変えても奴らは何度も家に侵入して家探しをした。怖くなった母は父がいない日中、家に寄りつかなくなったわ。私も通りすがりにナイフで脅されたし、大人数に囲まれて車の中に引きずり込まれそうになったこともある。私ね、その時になって初めて晃くんの気持ちが分かったの。近所の人も学校の友達も、その場に居合わせた人達全部、何もかも信じられなくなるってこういうことなんだって――晃くんは小さいころからあんな怖い世界で生きていたんだね。結局――父は悪魔にその研究を売ったわ。研究よりも私や母の命を取ったの」
「悪魔ってテロリストたちのことか?」
「もしかしたらテロリストよりもタチが悪いのかもしれない。あの人、言ってたわ。ウイルスを盗むようそそのかしたのは自分だって。確かに殺人ウイルスができてしまったことは遺憾なことだ。でもそれは父がやらなくても、いずれ他の誰かが発見していたかもしれない。だったらウイルスを破棄するべきではない。それこそワクチンの開発をすすめて、万が一の時に備えるのが賢明だ――って。一見正論に思えるわよね? でも違った。あの人は本来父が持つべきだったワクチンの特許を自分のものにして、利益を得ようとしたのよ。私達家族の命と引き換えにして。
あの人は負の研究を受け取る代わりに、この世から消えろと言ったわ。そのための舞台はこちらで用意すると。父はその条件を呑んだ。そして――あの爆発火災を起こしたの。
……事件の後、私達は蓮城の名を捨てたわ。南はね、祖母の旧姓なの。私達は正体がばれないよう世間の片隅でひっそりと暮らしていた。父は畑違いの仕事についたけど、研究に明け暮れていた時の輝きを失ってしまった。母は言葉にはしないけど、昔の生活が恋しいみたい。私はそんな両親を見るのが辛かった。だから――高校を卒業したら自立しよう、そのためにバイトを始めたわ。あとはごらんのとおりよ。
まさか、晃くんにまた会えるとは思わなかった。最初はびっくりしたけど。本音を言えばすごく嬉しかった。でもね。晃くんの顔を見るたびにあの人の顔がちらつくの。確かにあの人のおかげで私達家族は生きていられる。けど死んでいるも同然なの。辛くて、悔しくて」
だからごめんね、そう言って紗耶香は俺に黒い「何か」を向けた。それはスタンガンじゃない。小さな拳銃だった。予想以上に重たいのか、紗耶香は拳銃を両手で抱えている。腕がぶるぶると震えていた。
「これ、玩具じゃないから。下手に動いたら引き金ひく、よ」
「これは俺の父への復讐、なんだな」
「そうよ」
紗耶香は悲しげに笑った。
「実はね、晃くんが眠っている間にあの人に連絡を取ったの。晃くんの命が惜しいなら特許を父に返せと言ったわ。前のような生活ができなくても、特許を取り戻せば父は元に戻るかもしれないって、そう思った。でもあいつは鼻で笑ったわ。そんなこと出来るわけがないって。だから私は――晃くんを殺すしかないの。殺して、あいつに見せつけなきゃいけないの」
紗耶香の瞳に鈍い光が宿る。緊張のせいか、息づかいが荒い。紗耶香は本気だ。俺は父を呪った。紗耶香をここまで追い詰めた父を許せなかった。
俺はどうすればいい? 彼女の言うとおり特許を返還すべきか? いや違う。彼女が本当に欲しいのはそんなものではない。欲しいのは「救い」なのではないか? だとしたら――
俺は席を立つ。紗耶香に近づくとその銃口を自分の胸に突き付けた。紗耶香がはっとしたような顔で俺を見上げる。
「俺が死ぬことで父に報いを与えることができるなら俺はそれで構わない。俺は紗耶香にまた会うことができたから、それだけで満足だ。俺はずっと後悔していた。自分のせいで紗耶香を死なせてしまったんじゃないかって、そう思っていた。でも紗耶香は生きていた。それだけで俺は救われた」
ありがとう、と俺が告げると紗耶香の表情が崩れた。唇がわなわなと震える。ずるいよ、と言葉が漏れた。
「晃くんは人質なのに。そんなことを言われたら私、悪人になりきれないじゃない」
「紗耶香は悪人には絶対なれない」
俺はきっぱりと言う。その瞬間拳銃が俺の胸から逸れた。紗耶香が一歩二歩と後ずさり、鉛の凶器を今度は己の心臓に向ける。安全装置はすでに外されていた。
そして紗耶香が引き金に力を込めようとした――その時だった。
ぴしりと乾いた音が耳に届く。硝子を突き抜けた銃弾が紗耶香の肩をかすめ、持っていた拳銃が床に転がった。続いて二弾目が放たれる。今度こそデッキ側の窓ガラスが粉々に砕け落ち、外から黒いスーツに身を包んだ男数人がリビングに入ってきた。奴らは北山が率いる護衛たちではない。それでも二、三人見覚えがある。奴らがいつも父の影に潜んでいたからだ。
奴らが紗耶香を取り押さえる。女性とはいえ命を奪おうとした者には容赦しない。床に体を押し付けると両腕を後ろに組ませた。肩に怪我を負った紗耶香から短い悲鳴が上がる。
「止めろ! 紗耶香に触れるな」
俺は一喝すると奴らの動きが止まった。紗耶香に近づく。紗耶香は床に伏せたまま動かない。俺は大丈夫か、と声をかける。すると触らないで、とつっぱねられた。
「一人で立てる」
それは紗耶香なりの虚勢だった。紗耶香がゆっくりと立ち上がる。肩を抱き血で染まったドレスを引きずりながら侵入者たちの前に立ちはだかる。
「逃げも隠れもしないわ。警察に通報して下さい」
「紗耶香!」
「これでいいの。これで私は蓮城紗耶香に戻れる――ごめんね、晃くん。もう私のことは忘れて」
そう言って紗耶香は俺に背を向ける。このまま離れてしまうのが惜しくて――だから俺は言った。二年前、月が一番美しかった夜に言えなかった答えを。
「忘れるものか。おまえは俺の初めての友達で俺の初恋だ。一生忘れるものか!」
叫んだあとで紗耶香が振り返った。その美しい瞳には涙が浮かんでいる。零れ落ちた涙は頬を滑り床に消えてゆく。ありがとう、さようならと唇が動くのを確かに見た。
紗耶香が奴らとともに闇へ消えていく。この家に取り残されたのは俺一人だけ。俺はしばらくの間、立ちつくしていた。テーブルの周りが緩やかな灯りを落としていく。長い時間ここにいたせいか、蝋はだいぶ小さくなってしまった。
そして全ての炎が消えたあと、急に外が騒がしくなった。
(使ったお題:25.零れ落ちた涙)
2013
ここは――どこだ?
俺は痛む首を手で抑え、ゆっくりと起き上がる。暗闇に慣れるまで少し時間がかかったが、うっすら見える家具とその位置でここが何処なのか、すぐに分かった。
ここは二階で「ここ」に来た時に俺が使っていた部屋だ。今いるのはベッドの上――のはず。
俺は一つため息をつき、これまでの事を思い出す。あの時、車の中で彼女はうろたえていた。もしかしたら抵抗されるかも、そんな思いも走ったが、まさか気絶させられるとは。しかも運ばれた場所が「ここ」だなんて。
俺は額に手をあてたあと、前髪をかきむしる。彼女が俺との対峙場所に「ここ」を選んだのは単なる偶然なのだろうか、それとも意図的なものなのだろうか。
――とにかく、彼女を探そう。
俺はベッドから離れ、ゆっくりと歩き始める。木製の扉を開け、吹き抜けの廊下を歩く。突き当たりの螺旋階段を降りればそこはリビングだ。
部屋を照らすのは足元にある小さな間接照明だけ。テーブルには蝋燭が灯されていて、皿に盛られた料理たちを華やかに映し出す。それらは全て俺が演出した舞台だった。
俺は彼女の姿を探す。広いリビングをゆっくりと歩むと彼女がデッキに繋がる大きな吐き出し窓の前にいるのを見つけた。空を見上げる姿はどこか儚げで、危うい。
「紗耶香」
俺は名を呟くと彼女がこちらを見る。紗耶香はフォーマルドレスをまとっていた。肩を出したデザインは斬新で妖艶だ。二年前は見るのをためらった胸元も、今は恥ずかしがらずに見ることができる。紗耶香の肌は色白で、鎖骨が美しく浮かびあがっていた。
「ここは二年前と何も変わってないのね」
家の中をひととおり見たあとで、彼女は言う。
「火事で全て焼けてしまったと思ったのに――晃くんが直したの?」
その質問に俺は否と答える。俺にとってここは忌まわしき場所だ。二年前からは近づくこともできなかった。外観も内装も当時のまま元通りにしたのは俺の父。俺はついこの間まで俺はここが建て直されていたことすら知らなかった。
俺はここを訪れるのはあの日以来だと言う。紗耶香はそう、と呟いた。
「晃くんは……どこまで知ってるの?」
紗耶香の問いにそれは、と言いかけ俺は一旦口をつぐむ。そっと手を差し出した 。
「まずは食事をしよう、話はそれからだ」
彼女が俺の手を握る。俺は腕を引き、彼女をエスコートした。席に案内し椅子を引く。紗耶香はありがとう、と一言告げてから席についた。俺も自分の席に座り、お互いのグラスにシャンパンを注ぐ。グラスを傾け音を重ねた。
テーブルに飾られた料理たちは鮮やかな色彩で楽しませてくれる。スープもメインの肉もすっかり冷めてしまったが、味は温かい時と何ら変わらなかった。
そして紗耶香はデザートにケーキを買ってきてくれていた。小さな苺ケーキをふたつに切り分け皿に移す。俺が買ってきたマカロンを添えると、そこで初めて紗耶香が俺に誕生日おめでとう、と言ってくれた。
二人きりのパーティはとても静かだった。和やかな雰囲気に包まれ終わりを迎えた。そして俺達は現実に引き戻される。先に本題を切りだしたのは紗耶香だった。
「南亜理紗が私だって、いつから気づいていたの?」
「一週間位前、だろうか」
最初は自分の憶測に自信を持てなかった。確信を持ったのは本当についさっきのことだ。
「南亜理紗と初めて会った時、俺は彼女を追いかけようとして、護衛たちに止められた。あいつらが現れるのは俺の身に危険が迫った時だけだ。でもその時は何も起こらなかった。だから俺は奴らの行動の理由を問い詰めたんだ。そしたら――」
俺が肩を掴もうとした瞬間、南亜理紗が服のポケットから何かを出そうとしてたのを見たらしい。ヒガシの背中が被って、ほんの一瞬しか見えなかったけど、あれはスタンガンだった。だから俺を守ったんだ、と。そう北山は言っていた。
俺は北山の言葉をそのまま紗耶香に伝える。刹那、彼女の顔に微笑みが広がった。それは自分の犯行を認めたと言わんばかりの表情だった。
俺は言葉を続ける。
「最初は俺の家を妬む誰かが紗耶香のことを利用して俺を陥れているのかと思った。南亜理紗はその刺客かスパイじゃないかって。でも一緒にいるうちにそれは違うと感じた。南亜理紗からは殺意というものが全く感じられなかったからな。むしろ好意に近いものを感じていたし、懐かしさも感じていた。彼女をスパイにするにはあまりにも無防備すぎたんだ。南亜理紗は敵ではない、そう結論に至った時、他に考えられる可能性はひとつ。南亜理紗は蓮城紗耶香かもしれない――そういうことだ」
「なるほどね」
「何故、そんな物騒な物を持っているんだ?」
「私だって好きで持っているわけじゃないわ」
でも、持っていないと不安だから身につけていたと紗耶香は言う。
「私もね、晃くんと同じで二年前から命を狙われていたの。でも私の家は晃くんみたいに裕福じゃないから、自分の身を自分で守るしかなかった。それだけの話。
父が製薬会社の開発所長だったことは知ってるよね? 父の仕事は新薬の開発でね、娘の私が言うのもなんだけど父は優秀だった。これまでに難病の特効薬をいくつも作ってきたわ。
でもある日――父は研究していたウィルスの亜種を偶然作ってしまったの。それは実験の失敗作で、ある物質と結合すると増殖して沢山の人の 命を奪う危険なものだった。父はそれをすぐに処分する予定だったわ。でも、仲間の研究員に盗まれてしまって――某国のテロにそれが使われてしまったの。
テロのあと、父は数年かけてウイルスに対抗するワクチンを開発したわ。そしたら、ワクチンの存在を知ったテロリストたちが父を脅迫してきた。その研究書類を全て渡せって。もちろん父はそんな奴らに屈しなかったし、私達も父の意志を尊重した。でもそのせいで家族である私達の身にも危険が及んだの」
そこまで言ったあと、紗耶香は深いため息をついた。
(使ったお題:47.暗闇に慣れるまで)