2013
私が飛ばされたのは異世界にあるどこかの厨房だった。テーブルに豪華な料理が並んでいる。美味しそうな匂いが食欲をそそる。そそるのだが、私が今いるのは厨房の天上だ。しかも下には大きな鍋がある。スープでも作っているのか、ぐつぐつと音をたてている。下から漂う湯気が熱い。
うーわー、このままじゃ釜ゆでの刑じゃないか。なんで? なんで?
なんて私が焦っていると、時空の扉が閉まってしまった。引力が発生し、私はカレー鍋とともに落下する。ぎゃあああ、と情けない悲鳴が私の口から出ると、一緒に時空を「飛んで」きたヤツが何かを叫んだ。持っていた杖がくるりと回転する。
すると湯の中へダイブする数センチ前で私の体がピタリと止まった。淡い光が私の回りを取り囲む。ゆりかごのように揺れたあとで、私は無事足から着地した。
「おー、危ないとこじゃったわ」
いつになく焦ったヤツに私の心は揺れる。え、これって師匠の優しさってやつですか? 普段はお仕置きじゃーなんて言ってるくせに。やっぱり弟子の危機には手を差し伸べるんだ。
ヤツが弟子が心配で救ってくれたのかと思っていた。だがそうは問屋がおろさない。ヤツはせっかくのカレェが台無しになるとこじゃったわ、なんてなんて言うじゃないか。
私は持っていたカレーを鍋ごとヤツにぶちまけようかと思った。でも大おじさま、と呼ぶ声がして、その野望は海の藻屑となって消えてしまう。その女性は厨房の人混みをかき分けると私達の前に立った。年は私の両親よりも少し若い位だろうか?
「大おじさまじゃないですか。こんな所で何をしてるんですか」
「おお、クレアか」
知り合いなのかヤツが親しげにその名を呼んだ。クレア、という響きに私は自分の世界で売っているシチューの商品名を浮かべる。彼女はパッケージに描かれたイラストに負けず劣らずの優しげな顔を持っていた。
「いやぁ、あっちの世界のカレぇを手に入れての。ふぉっふぉ」
「あら、それはよかったこと。でも厨房にいらっしゃったのはどういうこと?それに隣にいるお嬢さんは……」
「こやつはワシの弟子じゃ。おまえにカレェの作り方を伝授したいとな」
「はあああっ?」
ちょ、そんな話聞いてないんですけど。つうかジジィが勝手にこっちに連れて来たんじゃないか!
「ふぉーっふぉっふぉ。そいじゃあとはたのんだぞよ」
奇妙な笑いを残し、ヤツは私の作ったカレーごとどこかへ消えた。詐欺師まがいのジジィにカレーを作らされ、有無を言わさず異世界に飛ばされた私はというと消化不良を超えて爆発寸前だ。
くっそぉ、あのジジィ! こうなったら適当な作り方教えて劇マズカレーでも作ってやるわい。
なーんて息を巻いていた私なのだが、ちらりと覗き見したクレアさんの期待の眼差しに私の悪意が削がれた。そんな純粋でキラッキラな目を向けられてしまうと、彼女を無下にすることはできない。仕方なく、私はどす黒い感情を封印する。クレアさんに正統な日本風カレーの作り方を教えることにした。
「まぁ、作り方――といっても、鍋に肉と切った野菜入れて炒めて適量の水入れて煮込んでルゥを入れるだけなんですけどね」
私がざっくりと手順を話す。するとクレアさんが首を横にかしげた。
「あの……ルゥって何なんでしょうか?」
ああそうか。こっちの世界では最初からできたルゥはないんだっけ。つまり自分で一から作らなきゃならないということ。私はルゥそのものの存在から説明しなきゃならないんだ。
「ええと、ルゥというのはカレーの元というか……」
私は唸った。カレールゥは昔々に一度だけ作ったことがあるけど上手く出来るだろうか?確か小麦粉とバターとカレー粉があれば作れたはずだ。
私はクレアさんに食材を保管してある場所を教えてもらい、そこへ向かう。厨房の奥にある扉を開くと、ひんやりとした風が私のもとへ吹き込んだ。何段にも積み重ねられた棚には肉や魚が置かれている。私はその一つ一つを確認しながら目的の品を探した。
棚をぐるりと一周したところで、白い液体の入っている金属製の甕を見つけた。これは牛乳、なのかな。ということは――
私は隣りにあったクリーム色の塊を手に取る。顔を近づけるとチーズとはまた違った、でも私の世界では覚えのある香りが届く。たぶんこれがバターだ。私はそれを抱え、もときた道を歩いた。
貯蔵庫から厨房に戻るとクレアさんが白い粉を用意して待っていた。
「私達がいつも主食に使っている粉です。普段はこれに水を足して捏ねて丸めたものを焼くんですけど――これでいいんでしょうか」
「それで十分です」
あとはカレー粉があればいいのだけど。
「あの、こちらには食材を味付ける――香辛料みたいのってありますか?」
「いくつかありますけど、どういったのを使いますか?」
「ええと……」
私は一瞬だけ説明に考えあぐねる。でもすぐに自分がカレー臭をまとっていた事を思い出した。
「あの、私のにおい、嗅いでくれます? それに近いものが欲しいんですけど」
「におい、ですか?」
けげんそうな顔をしつつも、クレアさんが私に近づく。鼻をひくひくさせたあとで、ちょっと待ってね、と言う。一度厨房を離れたクレアさんは数分後、一振りの枝を持って戻ってきた。
「これはどうかしら?」
彼女が私に見せてくれたのはどんぐりの形をした木の実だった。鼻を寄せるとカレーにも似た香ばしさが広がる。これを粉状にして入れればそれらしい雰囲気は出せるかもしれない。
私は昔の記憶を頼りにルゥを作り始めた。まずは木の実をすり潰して粉状にする。鍋にバターもどきと粉を一対一の割合で入れて炒め、先ほどのすり潰した粉をを入れた。あとは固まるまでひたすらかき混ぜるだけ。この作業が思いのほか辛い。
私はルゥを焦がさぬよう細心の注意を払った。そのおかげで、髪は勿論、着ていたパジャマも更なるカレー臭に包まれた。
ようやくルゥがまとまった。それをクレアさんが用意したスープで伸ばす。そのあとでこちらの世界で普段から食べられている野菜を加え、野菜が柔らかくなったら完成だ。ぐつぐつと煮立つカレー色を見てクレアさんがそわそわする。
「あの、味見してもいいですか?」
私の返事を待たずにクレアさんは行動に出た。自分の首に下げていた銀のスプーンを手に取ると、できたばかりのカレーをすくった。口に含み、じっくり味わう。そのあとで私の顔を見た。なんだか泣きそうな顔をしている。あれ? 失敗した? 見た目と匂いは同じなんだけど。それともルゥが辛すぎた? 口に合わなかったとか?
味が気になった私はクレアさんのスプーンを借りて一口味わう。口に入れた瞬間、なんとも言えぬ不味さが広がった。何だ。この砂糖を大量に入れたような劇甘カレーはっ。私は甕にあった水を柄杓ですくい一気に飲み干す。それでも舌に残る甘さはなかなか消えない。
たぶん、あの木の実がいけなかったのかも、とクレアさんは言った。なんでも、あの木の実は煮るとかなりの甘みが出るらしい。こっちの世界ではお茶受けや食後のデザートとして出るのだとか。そんなことだったら先に聞いておけばよかったわ。
私は甘ったるいカレーの入った鍋を見ながらため息をつく。匂いはカレーそのものなのに、味が全く逆って犯罪だな、と思いつつ。
「ええと……今度こっち来た時にカレールゥ持参しますので。その時また作りましょう……はい」
80フレーズⅠ「09.真夜中の祭」の続き。