2014
公園のベンチで本を読んでいると背後から草ずれの音がした。
僕はちらりと振り返る。すると茂みの奥で、小さな女の子が同じ年位の男の子の頬にキスをしているではないか。
「あのね、ゆきはよーくんのことがだいすき」
それは親の目を盗んでの行為だったのだろう。たまたまその場にいた僕だけが密会を目撃してしまったようだ。
ツインテールの女の子は男の子の前でもじもじしながらあのね、と話を切りだす。
「よーくん。おねがいがあるんだけど」
「なぁにゆきちゃん」
「あのね、おおきくなったらゆきのだんなさんになってほしいの」
「だんなさん?」
「えっと、けっこんしてってこと」
あまりにもストレートな逆プロポーズに僕は苦笑した。おまえら幾つだよ、なんてツッコミたくなるけど――
「ごめんね。それはできないんだ」
男の子の返事に思わず身を乗り出してしまった。僕の耳はすっかりダンボ状態だ。
「なんで?」
「あのね、ぼく、おおきくなったらあかねせんせいとけっこんするってきめてるんだ。だからゆきちゃんとけっこんできないの」
「やだぁ」
「でももうきめたことだもん」
次の瞬間、弾ける音が飛んだ。「ゆきちゃん」が「よーくん」にビンタをくらわせたのだ。思いがけない展開に僕は思わず目を見開く。
「よーくんなんてだいっきらい!」
ゆきちゃんの絶交宣言に今度はよーくんが目を丸くしていた。子供の言葉は良くも悪くも直球、諸刃の剣である。ここでよーくんが泣く確率はすごく高い。というか既に泣きそうだ。
ああでもこの場合、加害者のゆきちゃんの方が泣きたいんだろうなぁ。
子供の修羅場に首を突っ込むのも何だけど、どっちも泣いたら元も子もないし。第三者としてそろそろ大人が出てきた方がいいのかなぁ。
そんなこと思いかけた時、空気が変わった。夕方の公園に「家路」の曲が流れ始めたのだ。
歌を合図に子供たちが動き出した。よーくんもゆきちゃんも他の子も近くで井戸端会議をしている親へ向かって走っていく。また明日ね、またね、と声をかけて公園から離れて行く。サヨナラの合唱だ。
一分後、あんなにも騒がしかった公園は私以外誰もいなくなってしまった。
手を繋いで帰る親子の姿、子供たちの素直さが、懐かしさと、ほんの少しの寂しさを引き出していく。
僕もあの年までは馬鹿なくらい親の言う事を素直に信じていた。
家路の曲が流れたら遊ぶのをやめてお家に帰りましょうね。でないと悪い鬼がやってきてさらわれちゃうよ。
親の小さな脅しに私は肩を震わせながらこくこくと頷いたのを未だに覚えている。
まだ幼かった僕にとって知っている世界は家と幼稚園とこの公園だけだった。この小さな箱庭で起きる些細なことも大事件だったのである。
僕は風を乗せているブランコに目を向けた。そしていつだったか、缶ビールがブランコの上に置かれていて使えなかった事を思い出す。
あの時初恋の女の子はブランコに乗りたくて、でも缶をどかす勇気はなかった。そして僕はいい恰好を見せたかったのだろう。その缶を持ってゴミ箱に向かったんだ。
でも途中でずっこけて缶の底に残っていたビールを被ってしまったんだ。アルコールの臭いがなかなか抜けなかったせいで、僕はその女の子に嫌われてしまった。あまりの理不尽さに僕はわんわん泣いたんだっけ。
「何笑ってるの?」
香りの記憶にくすくす笑っていると、ふいに声をかけられた。振り返った先に僕の彼女がいる。茜、と声をかけると彼女の長い髪がさらりと揺れた。
「ごめんね。お迎えの遅い子に付添っていたからこんな時間になっちゃって――結構待った?」
「まぁそれなりに」
僕はそう言って彼女の手を握った。彼女の手の温かさに小さな幸せを感じながら。
よーくんには悪いがこのとおり、僕たちは付き合っている。勿論、結婚を前提で。子供の目からみたらこれは大事件になるのだろう。
近い将来、僕もよーくんに一発殴られるかもしれないな。
僕はそんなことを思いながらそっと肩をすくめた。