2013
人間はハレ(非日常)とケ(日常)の世界観をもっているのだと、かの民族学者は言っていた。
でも何を持ってハレと呼ぶのか、何がケなのだろうか。
例えば豪華絢爛なパーティ。私ら一般人にはハレの舞台と言うけれど、セレブにとってはそれがケであったりする。
例えば戦場。そこで生きる人達は毎日が死と隣り合わせであって、私らのようなのほほんとした暮らしはむしろ異常に思われるだろう。
何が普通なのか、それはその人の生き様というか、価値観がものを言うのではないだろうか、と私は思う。
そう。ヤツにとってのハレが私にとってケであるように。私にとって普通なことがヤツにとってはものすごく価値のあることのように。
これは私がヤツと過ごした、私にとってハレで奇妙な三年間の記録である。
その日、私はいつもの通学路とは違う道を歩いていた。この閑静な住宅街を突き抜ければ始業チャイムにギリで滑り込める――計算ではそのはずだった。
異変に気付いたのは歩きはじめてから数分後。空気を割るような音の後で、私の頬を何かがかすった。手を触れると指に赤いものが走っていた。何だこれ?
最初はここに住んでいる子供がBB弾でも打って遊んでいるのかと思っていた。でもこの時間は子供も皆学校や保育園に向かっているはず。学校にそんな玩具は持って行けないはずだ。
じゃあ、頬をかすったものは何だろう。かまいたちか何かだろうか?
私はなんとなく後ろを振り返る。するとそこにやたらでかい筒を抱えた輩がいた。迷彩服姿のそいつらは私に向かって構えの姿勢をしている。あれってマシンガン? そっちはロケットランチャーっていうんだっけ?
私はぼんやりとそんなことを思って――はっとした。首をぶるぶると振る。そんなのありえない、と自分に言い聞かせる。
そうだ、ここは平和を宣言した国、日本ではないか。こんな物騒なものはちゃんと届け出を出さないと。勝手にぶっ放したら警察に捕まるんじゃなかったっけ?
そうこうしているうちにひゅるるるという音が通過した。巨大な弾丸は綺麗な弧を描いたあとで私の側にある街路樹に激突する。派手な音と共に欅の木が木っ端みじんに砕かれた。
え……ええと。
これは何かの撮影なんでしょうか? ハリウッド張りのアクション映画でも撮ってるとか?
私はぐるりと周りを見渡すけどカメラや照明器具らしきものは見当たらないし、スタッフの姿もない。迷彩服の奴らは引き続き銃口を私に向けたままだ。
このままだと確実にやられる。
私はもつれた足に鞭を打つと全速力でその場から逃げた。本能の赴くまま、命からがらで迷彩服の奴らを巻く。近くの公園に飛びこんだ。そこは何処にでもある小さな公園だけど、腰ほどの丈の植え込みがちょうどいい盾になる。
私は植え込みの中に体を隠すとじっと息をひそめた。胸に手を当て息を整える。でも冷静になれた事で私は更なる謎に気づいてしまう。こんなにもドンパチ音を立てていれば苦情の一つくらい飛んでもおかしくないのに、パトカーの音すら聞こえてこないのだ。
一体なんで?
そこまで考えて私ははっとした。通りや家に奴ら以外の人の気配が感じられない。それどころか、どの家の窓にもカーテンやブラインドがついてない。
まさか、ねぇ?
この住宅地自体が物抜けの空ってことはないよね?
そう思った刹那、血の気が一気に引く。夢でありたいと必死で願うが、頬を伝う痛みは未だ消えず。ここまでくると嫌が応にもここが治外法権だと認めざるを得ない。
少しでもここから離れなきゃ。
私は更に安全な場所を求め彷徨う。すると公園を出て道路を渡った先に頑丈そうなコンクリートの建物を見つけた。そこまで直線距離にしておよそ三十メートル。
私は一度深いため息をつく。気合い入れに頬を両手で叩いた。周辺に奴らがいないことを確認する。願わくばここからの生還を望む。流れ弾に当たってご臨終なんて洒落にならない。というか、まっぴら御免だ。私はタイミングを見計らって走り出す。
最初は順調だった。追い風のせいもあってか体が軽い。このまま一気に逃げ切れるかも。そう思っていたらお決まり通りというか、あと数メートルと言う所で石につまずいた。盛大に転んだ私は大地にはいつくばる。背後に殺気をビシビシと感じた。
うわ、これって死亡フラグ確定ですか。
私はぎゅっと目を瞑る。覚悟を決め、衝撃に耐えるべく体を強張らせた。だが、一向に「その時」は訪れない。私は恐る恐る目を開く。驚愕したような奴らの視線を追いかければ通りの奥から黒塗りのベンツがF1並みのスピードでこちらに突っ込んでくるではないか。ベンツは私達の目前で半回転のドリフトを決める。焦げたゴムの臭いがこちらまで届いた。
車の扉が開いた瞬間、破裂音が立て続けに響く。車内から出てきた黒づくめの人達が襲撃者に向かって突進していく。それと同時に腕を引かれた。私は放置されたゴミ袋が収集車に回収されるごとく車の中に詰め込まれるが、あまりにもぞんざいな扱いに私は頭を思いっきり打ってしまった。
「ったったた……」
私が後頭部をさすっていると、車は急発進した。席にすらついてない私はごろごろと体を回転させる。でかいベンツの車内を右へ左へと振り回され、最終的にシートの隙間にぶつかった。
目の前にあるのは人の足。見上げれば私とそう年の変わらない男が皮張りのシートにふんぞり返って足を組んでいる。イケメンとは言い難いが、可もなく不可もない顔がそこにある。男は私に対して怒ることはなく、むしろ物珍しそうな表情で私に問う。
「こんな所をのうのうと歩いているとは珍しい。おまえは命知らずか? それともただの阿呆か?」
「は?」
男の前で私は眉をひそめた。何コイツ。初対面にしちゃずいぶん態度がデカイじゃないか。
私は何言ってんの、と言葉を返そうとするけど――
「まさか『関係者以外立入禁止』の看板が見えなかったとは言わないだろうな」
その、ごもっともな一言に私は言葉を詰まらせる。確かに。住宅街の入口にはそんな看板が立っていた。私が通っている高校からもここは私有地だから通学の際はそこを避けるようにと口酸っぱく言われている。
でもここに立ち入ったのは今日が初めてだ。電車の扉に制服のリボンが引っかからなければ、余裕を持って学校に到着していた。ここに足を踏み入れたのは出来心というか、魔が差したとしか言いようがない。
「この周辺はニシ家が管理している。不法侵入とあらば『奴ら』と一緒に警察に突き出すが?」
そう言って男は親指を突きあげ、窓をつついた。車はすでに停車している。私がしぶしぶ窓を覗きこめばさっきまで私を追いかけていた奴らが黒づくめの男たちに抑えつけられていた。硝子を通して奴らが何か叫んでいるのが聞こえる。彼らの喋っている言葉は難解で、外見からしても日本人とは言い難い。そして彼らを押さえつけている黒づくめの人達も人間離れした雰囲気をまとっていた。
こいつらって――何者?
私はいぶかしげな目で男を見上げる。男はそんな私に向かって不敵な笑みをのぞかせた。
東西コンビの出会い編。しばらく続きます。