2013
うっすらと瞼を開けると、天井に目を逸らしたい「何か」がいた。
私はげ、と言葉を漏らす。
これは悪夢と言ってもいい。いや、悪夢でいい。夢の方がまだましってもんだ。
十年前と変わらぬ、切れ長の目を大きく見開いた男は、こと不思議そうな顔で私に聞いてくる。
「昼間っからゴロゴロしてるなんて珍しい。今日って定休日だったっけ?」
その、のんびりした声に私は目元をぴくりと引きつらせる。その一方で何か凶器になりそうなものがないか頭を巡らせた。
火照った手で枕元を探る。ベッドサイドに固いものが触れた。この感触、前に買った読みかけの本のはず。
私は迷わずそれを手に取る。渾身の力でヤツに向かって投げつけた。本の角がヤツの鼻先にぶつかる――はずが、物体はヤツを見事貫通し天井に一瞬だけへばりついた。
同時に私は思い知らされた。ヤツがすでにこの世の者でないことを――
私が飛ばした本はニュートンの法則に従って落下する。見事私の顔面に激突した。角には当たらなかったけど、ハードカバーだったから半端なく痛い。これこそ泣きっ面に蜂っていうんだろうか?
「大丈夫か?」
ベッドの上で悶える私にヤツが聞いてくる。
私は痛み消えぬ状態でぼそりと呟いた。
「……るな」
「え?」
「話しかけて来るな。今日は相手する暇もない」
「暇も何も――暇じゃないのか?」
お気楽幽霊のボケに、すでに沸騰状態の私の頭がはち切れる。
見てわからないのか! と反論しようとした時だ。
私の口がひゅう、と悲鳴を上げた。吐き気にも近い咳が私を襲う。うずくまったまま小刻みに肩を揺らすと、喉から鉄にも似た味がこみ上げてくる。
「なるほど、風邪をひいたのか」
流石のヤツも私の弱りぶりに気づいたらしい。大丈夫か、と人並みに声をかけてくれるが、何せ相手は幽霊。生前に私を捨てた男の言葉は心にこれっぽっちも響かないわけで。
本当なら成仏し損ねた馬鹿男を蹴り飛ばして追い出してやりたいが、それをするまでの体力がない。
私はヤツに背を向けるとはぁ、と深いため息をこぼす。
風邪をはじめとするもろもろの病気は、おひとりさまの私の体力気力を相当奪う。
実家は遠いし平日に頼れる友達は少ない。二つ先の駅に嫁いだ妹はいるけど、子供がまだ小さくて手がかかるだろうし――風邪ごときで呼びつけるもの何なわけで。
だから私は一人で病気に立ち向かうしかないのだ。
とりあえず気合いで病院までは行った。コンビニで栄養剤とゼリーとスポーツドリンクをゲットした。布団周りに必需品だけ置いて、巣ごもりの完成だ。安静にしていれば明日には熱も下がるだろう。
「そういうことだから。今日は私に関わらないで」
私は手をひらひらと振ると、再び瞼を閉じた。薬がまだ効いているのか、瞼が重い。眠りにつくのにそう時間はかからなかった。
再び目を覚ました時、人の気配を感じた。
側に誰かがいる。最初はヤツかと思ったけど――違う。
背の高さも髪の長さも、性別も。
「知香?」
私のかすれ声を聞いて、本を読んでいた妹がくるりと振り返った。
「あ、起きた?」
「起きた……けど」
なんで? と言いたげな私に向かって妹は呆れた顔をする。風邪ひいたなら私に言いなさいよ、と最初に愚痴をこぼされた。
「虫の知らせっていうの? お姉ちゃんから貰ったグラスが突然割れちゃってさー。なーんか気になって携帯かけたら全然出ないし、お店に電話かけたら休んでるって話だし。管理人さんに頼んで鍵開けてもらっちゃった」
今日はこっちに泊まるから、と妹は言葉を続けた。
「お姑さん子供の面倒頼んだし。旦那も今日は早く帰ってくるって」
丁度その時、私の腹の虫が鳴いた。お粥作ったから持ってくるね、そう言って妹は席を外す。
部屋に取り残された私は妹が来てくれたことに感謝する。こういった虫の知らせって本当にあるんだなぁと思いながら。
グラスって、結婚祝いに送ったやつかな。あれは奮発したんだよね。
そんなことを思いながら何気なく窓を見やるとベランダにヤツの姿を見つけた。
寒空の中でヤツは満足げに笑っている。手をひらひらと振ると北風に身を任せ何処へと飛んでいってしまった。
やけにご機嫌の様子だけど、何かいい事でもあったのか?
私が小さく首を横にかしげると、妹が小さな土鍋を持って部屋に戻ってくる。
「さあどうぞ」
渡されたれんげでお粥をすくうと口をつけた。見た目はシンプルな卵粥だけど隠し味に使われた魚醤に懐かしさを覚える。
料理上手な妹は母親の味を見事に引き継いでいた。
「美味しいでしょ?」
ドヤ顔で妹が聞いてくる。笑った時の顔が母親にそっくりだ。身も心も温かくなった私にちょっとだけしょっぱいものがこみ上げた。
80フレーズⅡ「32.堪え切れない衝動」のキャラたちで。
このネタは今週体調を崩して、家族の温かさに触れたから出たのだと思う。