2013
「あれ? 栞じゃん」
電車の中で友達と喋っていると、突然声をかけられた。私は思わず肩を揺らす。振り返ると、怜央が車両の奥から爽やかスマイルで近づいてきた。私は一瞬頬が引きつったのを慌てて直す。穏やかな声で言葉を返した。
「怜央、は――家、反対方向よね。どうしたの?」
「ちょっとスタジオで写真を撮りに。栞は今帰り?」
「まぁ、ね」
私は怜央の手元に視線を置いた。学校指定のスポーツバックの他に大きな紙袋を下げている。中身がちょっとだけ気になったが――あえてそこに触れずにいた。
電車が減速し、ホームに突入する。扉がゆっくりと開いた。
「じゃ、僕ここで降りるから。じゃあね」
あまりにもにこやかに去るものだから、私もホームに降りた怜央に小さく手を振るしかない。扉が閉まる。電車がゆっくりと動き出すと一緒にいた友達二人に突然はがいじめにされた。
「ちょ、栞、あのイケメンは何? 何なの」
「まさか彼氏? 恋なんか興味ないって言ってたくせに?」
「残念ながらそんなんじゃありません。あれは父方の従弟」
「本当? すっごいイケメンじゃん。もしかしてハーフ?」
「ううん、クォーター。叔母さんがイタリア系のハーフ」
「うーわー、うーわー」
「ちょ、喜ぶ前にその手離してよ」
私は彼女たちの手を強引に振りほどく。数日後にバレンタインを控えているだけあってか、彼氏募集中の彼女たちは目をきらきらと輝かせていた。男(イケメン)に敏感なのはウチらが通っているのが女子高だから、だけじゃない。
ウチの学校には、卒業までに彼氏がいないと「生きた化石」と呼ばれ一生独身で過ごす――という変なジンクスがある。それは多感な年頃の私達には迷信だと分かっていても、切り離せない枷でありノルマでもある。三年生になると受験でそれどころじゃなくなるから、その前に彼氏や恋愛経験をと考える者も少なくない。冬の三大イベント前なら尚更。皆とても必死だ。
「ねぇねぇ。従弟くんって彼女いるの?」
「今はいないみたいだけど……私はあんまりアイツおススメできないかなぁ」
「えー、そんなことないじゃん。なんでぇ?」
「何としてでも! とにかくアイツは駄目。もっと他を探した方がいいって」
私は友の肩をがしっと掴むと、本気で訴えた。私に気押されたのか、友達がこくこくと首を揺らす。
きっぱりと突っぱねたのには理由がある。本当、怜央は薦められないのだ。怜央は頭もいいし運動神経もいい。自分に自信を持っている。痛いほど自分の存在をリスペクトしているのだ。
一年前、久々に怜央の部屋を訪れた時、私の背筋は凍るを通り越して、むずかゆくなった。部屋が汚かったわけじゃない。部屋にあったものが問題だったのだ。
部屋の中は怜央の顔で溢れていた。缶バッジやノートといった小物から、果ては机やベッドの抱き枕まで。アイドル並みのグッズが取りそろえられていた。
三年前訪れた時に見た人気のアイドルグループのポスターも、自分の等身大ポスターで上塗りされている。アンタは何処のアイドルだ、どんだけ自分が好きなんだとツッコミを入れたいくらい。それだったら萌え萌えのアニメキャラのポスターの方がまだ可愛げがあるというものだ。
あの時、私は怜央の趣味をなんとか堪えて、そんなに自分が好きならアイドルになれば? と言った。すると怜央は首を横に振ってこう言ったのだ。
僕は常に「誇れる自分」でありたいんだ。だから僕は他人に媚を売る様な仕事はしない、僕の美しさは僕にしか分からない、僕だけ知っていればそれでいいんだ、と。
その瞬間、当時抱いていたアイツへの尊敬と憧れは見事砕けた。甘い思い出は粉となり、空の彼方へと飛んでいったのである。今にして思えば、そのことが自身の恋に歯止めをかける理由の一つになったのかもしれない。あの時のことを境に、私の男性を見る目は変わった。全てがそうじゃないと分かっているけど、少しでも意識すると脳裏にアイツがちらついてすぐに萎えてしまう。冗談ではなく、見目麗しい身内を持つと良くも悪くも苦労するんだ。本当に。
私が遠い目であさっての方向を向いていると、携帯が鳴った。怜央からのメールだ。「昨日の僕」という題名に私は思わず声を上げそうになる。添付されたメールを開くと、これまたどこで調達したのかという王子ルックの怜央が映っていた。
色白なせいで、ロココ調の衣装がよく似合う――似合うが、人様には見せられない。こんな恍惚とした顔はあまりにも恥ずかしすぎて。
私は速攻で画像を削除する。そしてナルはくたばりやれ、と小さく呟いた。
2013
大学でお世話になった教授が名誉ある賞を頂いたと聞いて、急遽OB会が開かれることになった。
俺は二十年ぶりに大学を訪れる。まだ建て変えていない講堂、当時の面影が残る旧友たち――全てが懐かしいものばかりだ。けど、何かが物足りない。何が足りないのだろう。
久しさにキャンパスを歩きながら、俺は旧友との話に耳を傾けながら俺はぐるぐると頭を巡らせる。一向に思い出せない。気分転換にちょっとだけ視点を変えた。仲間たちから一歩引いて周りの景色を眺め――隣りのビルが茜色に染まった瞬間、違和感の正体に気づいた。そうだ、「アイツ」の姿がないんだ。
大学時代、俺はアイツと学を共にした。アイツは俺達から一歩引くような感じで、周りを見ていた。垢抜けない田舎者の顔。服のセンスも古くて無口だった。孤独を自ら好むようなふしがあった。見かねた俺が合コンに誘うとアイツはいつも困ったような顔をした。ノリが悪いなぁ、と思っていたが、ある日、アイツ宛ての手紙を拾ってその理由がはっきりした。アイツには遠距離中の彼女がいたんだ。
西日がまぶしい研究室でアイツは同封されていた写真を俺に見せてくれた。セピア色に染まった女性はアイツには勿体ないほどの美人で、清楚な感じだった。お互い仕事や勉強で忙しくて、会えるのは年に一度故郷に帰省する時だと聞いていた。メールや携帯が当たり前のこの時代に紙とペンを取って、研究室の片隅で手紙を書いていたのがとても印象的だった。
「なぁ、アイツはどうしてる? 今日は仕事で来れないのか?」
俺がアイツの話題を振ると、ゼミの奴らがきょとんとした顔をした。隣りにいたシュウがアイツって誰のこと? と聞いてくる。
「同じゼミの『アイツ』だよ。一緒に研究してた」
「院生の大沢先輩のこと?」
「違う。俺らと同級生の――」
俺はアイツの名前を口にしようとして――口ごもった。確かに顔ははっきりと覚えている。名前を聞いた覚えがあるのに、その名を思い出せない自分にひどく驚いた。
それは一時的な忘却とは違う。確かに俺はアイツ宛ての手紙を見た。だが宛名の部分だけモザイクがかかったようにぼんやりとしている。それを一生懸命振り払おうとすると、こめかみに鈍い痛みが走った。
何かを絞り取られるような感覚に俺は思わず呻く。眉がひくひくと痙攣した。
「おい、どうした?」
シュウの言葉に俺ははっとする。気がつくと額に大量の汗をかいている。
「大丈夫か? 顔が真っ青だぞ」
「ああ、何ともないって」
俺は笑顔を浮かべた。ところでさ、と言葉を続ける。
「俺、さっきから何の話してたんだっけ?」
「おいおいおい。話題振ってきたくせにもう忘れたのかよ。ボケるには早いぞ」
シュウに背中を軽く叩かれ、周りの奴らが笑う。まぁいっか、と俺もおどけると今日の主役が顔を覗かせた。品の良い清楚な老夫人を連れている。
俺たちは背を正すと、無愛想な教授に深く頭を下げた。
主人公が見たのは若き時代の教授だった、という話。たぶん、古い過去との間にネジレでも起きたのでしょうというオチで
2013
頃合いを見て訪れた図書室はとても静かだ。カウンターにいた女の子に見覚えがあったので、私はチャンスとばかりに声をかけた。
「加賀谷さん、だよね?」
私の声に彼女はぴくりと肩を揺らした。ゆっくりと顔を上げる。
「ええと、御園さん? だっけ?」
想像よりも低い声が私の耳に届く。彼女は読みかけのページにしおりの紐をかけると、本を閉じた。はるか昔に活躍した人の顔が描かれた表紙が私の目につく。
「それってファーブルの本? ファーブル、好きなの?」
「全然。虫も大嫌い」
「だったら何で読んでたの?」
「虫もファーブルも嫌いだけど物語は面白い。だから読んでた」
それは私の予想の斜め上をいく答えだった。彼女のぶっきらぼうなもの言いに私の心がうずく。さっきまで人の機嫌を伺うような言葉ばかり聞いていたから彼女の存在がとても新鮮に感じた。
「加賀谷さんって駅前のマンションに住んでいるんだよね?」
「そうだけど」
「私も昨日からそこに引っ越したの。ねぇ、今日一緒に帰っていい?」
「そんなことして大丈夫?」
「なんで?」
「さっき他の子『たち』に一緒に帰ろうって誘われてたでしょ?」
「ああー」
私は帰りの会が終わってからのことを思い出す。
転校初日の放課後、私が新しい教科書を赤いランドセルに詰めていると、それぞれのグループのリーダーらしき子たちに囲まれた。
「御園さんって駅前のマンションに住んでいるんだよね」
最初私にに話しかけてきたのは、このクラスで比較的可愛い顔立ちをした子だった。あとで街を案内するから一緒に帰ろうと誘われる。すると、負けじと他の一人が駅のショッピングモールに可愛い雑貨屋さんがあるから一緒に行こう、と言い出した。私が曖昧な返事をしていると今度は別の一人が私の家にこの間買ったゲームあるから遊ばない? と右腕を引く。かといえばウチ犬飼っているから見せてあげる、と左腕を引く。それぞれが自分の売りを前面に出していて――みんな、転校生の私を自分のグループにひきこもうとしている。
まぁ、これまでに何回も転校を繰り返した私だから、そういった女の子の事情はなんとなく読めていたし、似たような風景は何度も見ている。自分の取り巻きをつくることに彼女たちは必死だ。でも見ている側からしてみれば醜いだけのこと。ドン引きした私は先生に呼び出されていたんだっけ、と嘘をつくことでその場を逃げたのだ。
「あの人たちの誘い断って私みたいな変人選んだらクラスで『ボッチ』決定になるんだけど。ああボッチって一人ぼっちのことね」
加賀谷さんの言葉はごもっともだ。私が見る限り、彼女はクラスの中で何処のグループにも所属してないようだ。他のクラスの子や男子と話をするけれど休み時間はだいたい一人でいて、教室の隅っこで本を読んでいた。
「どうするの? そうなってもいいなら私は別に構わないけど」
言葉はそっけないけど、その裏に親切がちらりと覗かせる。それを聞いて私は更に嬉しくなった。
「別にいいよ。私、仕事終わるまで待ってるから。一緒に帰ろう」
私がにやりと笑うと、彼女が目を丸くした。そのあとで御園さんって変、と言う。加賀谷さんほどじゃないもん、と私が言うと彼女が笑う。加賀谷さんの控えめな笑顔はクラスのどの子よりも可愛いく美しかった。
2013
彼女が最後のデートに選んだのは家からほど近いところにある河川敷だった。
ここは僕がはじめて彼女に出会った場所だ。二年前の春、朝河川敷で犬の散歩をしていた僕は、遊歩道でランニングをしている彼女とすれ違った。はっきりいって一目ぼれだった。彼女に出会えたことで僕はこれまで嫌がっていた早起きも犬の散歩も大好きになった。初めて挨拶を交わしたのはその一か月後、声をかけるのに勇気がいった。
初めて気持ちを打ち明けたのは更に二か月後のことだ。そこで僕は彼女が僕と同じ気持ちを抱いていたことを知った。その日からここは僕らにとって「はじまりの場所」になった。ここに二人で来るのは久しぶりのことだ。
僕と彼女の仲はすでに冷え切っていた。それはそれは喧嘩の数を忘れるくらいに。きっかけは些細なことだったと思う。でもお互いに疑いを持ち始めた瞬間僕らは道をたがえた。僕らは何時しかお互いの琴線を超える言動をした。たぶん彼女は今も僕のことを許してはいない。僕だって同じだ。まだ彼女のしたことを許そうとは思わない。僕たちの間にできた溝は深くて、潜ったら最後、息を詰まらせて死んでしまうだろう。神様が出会った頃まで時間を戻して「ここからまた始めよう」と言われたとしても僕たちの仲が修復できるとは思わない。
彼女は土手に立ちつくしている。ここから見える風景は僕らにとって宝物だった。それは二人の思い出の場所だからじゃない。コンクリートに囲まれた暮らしを強いられている僕らにとって、僅かに残る緑の風景はとても貴重で、癒される。どす黒い気持ちも嫌なことも全て浄化してくれるからだ。
時折もの凄い音を立てて電車が橋を通過する。それにつられ土手の花がそよそよと揺れる。少し尖っていて、ざらざらした草に触れると香りがふんわりと鼻に届く。
きがつくと彼女は目を閉じていた。この景色を五感で感じ取ろうとしている時の彼女はとても無防備だ。付き合い始めの頃はその顔を見るたびにキスをしたい衝動に駆られた。というか、何度か実行した。
今思えば甘酸っぱくて恥ずかしい出来事も今は遠い昔の話だ。彼女がゆっくりと瞼を開ける。僕が当時のことを思い出したせいか、彼女の気持ちを確かめられずにいられない。
「もしかして、昔のこと思い出してた?」
彼女はううん、首を横に振った。
「カズくんとは行く所までいっちゃったから、もうそんな感傷はないんだけどね。ただ、ここで初めて会ったならここで別れた方がいいのかな、って。私はここが大好きでこれからも大好きでいたいから。元カレとの思い出の場所じゃなくて、新たな旅立ちの場所として記憶に残したいなって」
それは彼女らしい考えだなと思った。僕もそれでいいんじゃないかと思った。僕もこの場所が一番のお気に入りだったから。僕はこの町を出て行くけれど、何処にいってもこの風景を思い出すだろう。旅立ちの場所、それは今の僕たちにふさわしい言葉なのかのしれない。
一陣の風が僕らを通り抜けた。
土手に広がる丸い蒲公英がふわりと揺れる。綿毛たちが巣立っていくのを僕たちはただ見つめていた。彼らが空の色に溶けてしまったあと、彼女がありがとう、とぽつり呟く。
「別れる前に一緒に来れてよかった。私のわがままに付き合ってありがとう」
「それじゃ、行くから」
別れを告げる僕に彼女は小さく頷いた。大好きな場所に背を向ける。振り返るのはやめた。今は夕陽がとてもまぶしいから、まぶしくて目に染みるから。だから前だけ向いて歩くことにした。
2013
それを聞き、俺の将来を心配した担任は親に連絡した。電話を受けたのがたまたま親父だったのも運が悪かったとしか言いようがない。
珍しく家族が揃った夕飯の席でお前は何になりたいんだ、と親父に聞かれた。俺は親父のような人間じゃなければ何でも、と答えた。親父みたくなりたくない――それは俺の本心からの願いだった。まぁ、そのあと人格を否定した親父に思いっきりグーで殴られたわけだけど。
そういうわけで今、俺と親父は冷戦状態に入っている。この時間はとっくに家に帰って部屋でゲームをしているのだが、残念なことに今日から親父の勤めている工場は季節外れの夏休みに入った。家に帰ればあの仏頂面が待っている。顔を合わせたらきっと進路についてあれやこれやと話をしなきゃならない。でもどう話合っても平行線のままなのは分かりきったこと。だからここで時間を潰すしかなかった。
台風の翌日は暑いと聞くけど、今日は涼しい風が吹いていた。連日の最高気温が三十五度を超えていただけに、五度下がっただけでも涼しく感じる。慣れというものは恐ろしい。俺はコンビニで買ったペットボトルに口をつけた。炭酸の粒が口いっぱいに広がって脳を刺激する。公園を走り回るガキどもは体力の温存と言うものを知らない。遊びに全力投球だ。
最初はぼんやりとその様子を見ていた俺だがそのうち、砂場で遊んでいた一人のガキに注目した。ガキは最初、平日休みらしき父親と砂の山を作っていた。父親はトンネルを作ろうか、水でも流そうかと言うけど、ガキは父親の言葉を無視し完成直前の山をあっけなく踏みつぶした。そのあとブランコにむかって一目散に走る。ぶんぶん揺らしたかと思ったら滑り台をあっというまに逆走し、ジャングルジムの頂上を目指す。
父親は子供と遊びなれていないのだろうか。子供の一つ一つの行動に驚き目を泳がせていた。ちょっと走るだけで転ぶから、と大きな声を上げている。他の子を押しのけ割り込む姿を見て、止めなさいと叫んでは近くにいる母親に頭を下げている。ガキはガキで人の気を引きたくてやったことなのだろう。でも父親そんなガキの気持ちを知らない。ただ怒鳴っているだけだ。俺は思わず苦笑した。
そんなの、放っておけばいいのに。
俺は心の中でそう思う。子供なんて転べば痛い事を学ぶし、泣かれたら相手が傷ついたことを知る。順番を守らなければ自分が嫌われることを学ぶ。自分より年上の子には叶わない。でも下の子には優しくしなきゃいけない。
俺にとって公園はそういう所だった。基本だけ教えれば後は実戦で学んでいくしかない。そんな場所。そう教え込まれたのは、母が子供より井戸端会議に夢中だったせいもある。母は母で、育児に参加しなかった親父へのストレスを発散させていたのかもしれない。親父は常に仕事を優先させていた。そのおかげで今の暮らしができているのは分かっているけど、今までの俺の人生は楽しくも幸せでもなかった。むしろ諦めることが多かった人生だったと思う。
親父のような人間には絶対にならない。それは俺の誓いでもあった。だからどんなことがあろうともこの決意を覆すつもりはない。
まぁ、そんなことはどうでもいい。今の俺には母がパートから帰ってくるまでの時間を何でどう潰すかが問題だ。
俺は携帯で時間を確認する。そろそろケンタがこのあたりの道を通るだろう。ジュースでも奢って、適当な時間まであいつの家にでも転がり込もうか。
ベンチから立ち上がった俺は再びコンビニを目指して歩いて行く。それは空がまだどこまでも青かった、夏の終わりのことだった。