2014
「そうか――今日は桃の節句だったな」
故郷を懐かしむような大佐の口ぶりに銀髪の少女――シャラは小さく頷いた。
「昨日、お客様から頂いたのを分けて貰ったんです。この場所は季節などありませんから、少しでも故郷の風を味わっていただけたらと」
大佐の故郷では今日、家に着物姿の人形を飾って女の子の成長を祝うらしい。しかもそれは千年以上前から続く習わしだという。
大佐は軍人になってからは一度も帰省したことがないという。それを知ったシャラはせめてものの気持ちで花を添えてみた。とはいえ、男性の部屋に花を飾るのに躊躇いがなかったわけじゃない。
「勝手に花を飾ってご迷惑でしたか?」
「いいや。とても嬉しいよ」
大佐は柔らかい微笑みをシャラに向ける。それからしばらくの間、大佐は薄桃色の花の香りを楽しんでいた。
「シャラは花言葉というのを知っているか?」
「朝、おかみさんから聞きました。桃の花言葉は『天下無敵』だそうですね。今の大佐にぴったりの言葉だと思います」
「そうか」
大佐は口元に自分の手をそっと当てる。何か考えるような仕草をしたあとで実は、ともう一度声をかけた。
「桃にはもう一つ花言葉があるんだが、知っているか?」
「いいえ。何でしょうか?」
「それはね」
突然大佐の顔がシャラに近づいた。低い声がシャラの耳元で囁く。私の心はあなたに奪われた、と。
甘い吐息にシャラの熱が一気に上がる。耳を抑えたままのけぞりかえると、シャラ数歩後ずさった。わずかに膨らむ胸元に手を当て動悸を必死になだめようとする。
「シャラはかわいいね」
くっく、と笑う大佐にシャラは唇を震わせた。ひどいじゃないですかっ、と叫ばずにはいられなかった。
「家に帰ったらアーリアさんに言いつけますからねっ」
最後の切り札をシャラは惜しむことなくぶつけた。アーリアというのは沙羅のいる置き屋の看板芸子だ。大佐がお気に入りな彼女はとても嫉妬深い。拗ねられたら大佐などひとたまりもないだろう。
「もうこんな悪戯しないで下さい」
ぷくぅとむくれるシャラに大佐は困ったように笑った。もうしないよ、と一度言ってみたものの、シャラは首を縦に振らない。仕方なく大佐は胸に手を当てた。それは軍人が忠誠を誓う時の仕草である。大佐の意志を汲んだのか、ようやくシャラが許してくれた。
大佐はシャラを愛しき人の姿に重なる。今は亡き伝説の踊り子。シャラはその一粒種だ。小さな種は彼女の面影を色強く残しながら真っ直ぐに育っている。懐かしい思いを馳せた大佐は穏やかに微笑んだ。
「素敵な花を見たおかげで元気になったよ。ありがとう」
2014
俺はゆっくり顔を上げた。目の前に横たわるのは俺のばあちゃんだ。俺はばあちゃんと横顔をじっと眺める。その穏やかな顔を見ているとばあちゃんの人柄が伺える。ばあちゃんは誰にも優しくいつも笑顔を絶やさなかった。
俺はふと自分の誕生日のことを思い出す。
何時だったか、ばあちゃんから貰ったプレゼントが親のと被ってしまった時があった。それは俺が前から欲しいと言っていた絵本だった。
その頃の俺は人を気づかうなんて言葉を知らなくて。だから箱の中身を知るなり、これいらない、と本を投げ飛ばしたのだ。
すぐに親からおばあちゃんからもらったものになんてことするの、と叱る両親に俺はいらないを連呼していた。あの時もばあちゃんはごめんね、と言って静かに微笑むだけだった。
次の日、ばあちゃんから別のプレゼントをもらった。俺の大好きな戦隊物のおもちゃだ。最初は俺もすごく喜んだ。
でもばあちゃんのにこにこした顔を見た瞬間、最初に渡された本のことが気になって、新しいおもちゃを貰えた嬉しさは徐々に消えて行く。
たぶん子供心に悪い事をしたんだな、って思ったのかもしれない。その日から俺はばあちゃんから無意識に距離を置くようになったんだ。
俺の誕生日から一週間後、親戚の集まりがあった。
その時伯母さんが突然ばあちゃんにお礼を言い始めた。ばあちゃん貰った本を息子がとても気に入っているんだと。
どうやらあの本は一歳下の従弟に渡ったらしい。ばあちゃんは変わらずにこにこしていた。事情を察した両親は気まずそうな顔をしていた。俺はというと自分は悪者にならずに済んで心の底から安堵していた。拗らせた想いを察した神様からばあちゃんの所に行ってもいいよとお許しを貰った気分だった。
それはまだ、明日が当たり前だと思っていた頃の話。
どんなにひどいことを言ってもばあちゃんは当たり前のようにいて、いつかは許されるんだとそう思っていた。
――なんて馬鹿なんだろう。
俺は慟哭する。「当たり前」は本当は奇跡なんだって、何で気づかなかった?
ばあちゃんは少し前に倒れた。全てが手遅れであとは死を待つしかないのだと医者に言われた。
最後に俺と言葉を交わしたのは朝だ。慌ただしい時間にばあちゃんはゆったりとした口調で俺にお菓子をくれた。でも俺はそれを突っぱねて――
「何であんなこと言っちゃったんだろうな」
俺は言葉をぽつり、落とす。人間として最悪な言葉を俺は呪う。そんな言葉を口走った自分が情けない。
「ごめんなばあちゃん」
俺は思いを言葉にする。悪気はなかったことを、本当は大好きだと言う気持ちを。全てが遅いと分かっていても言わずにはいられない。
「ありがとう」
2014
自分の夢を語る男性に私の眉がぴくりと動いた。穏やかだった心にさざ波が立つ。
「いつか」なんて言葉は嫌いだ。
期待だけ持たせておけばそれでいいってもんじゃない。だったら最初からあてのない約束なんてするんじゃない。
だから私は「いつか」という言葉を聞いた瞬間相手に幻滅してしまう。夢のある言葉を完全否定するつもりはないが、体がどうしても受け付けないのだ。
そうなってしまったのは私の成長過程が原因だと思う。
私が生まれてすぐ、私の父に病が発見された。父の治療は長引く上、手術に膨大な金額がかかったらしい。だから私の家は常に金に困っていた状態だった。
そんなある日、私はスーパーのおもちゃ売り場で当時人気だったキャラクターのおもちゃを見つけた。値引きのシールが貼ってあるそれを私は母に見せ、これが欲しいと言ったが母は首を横に振った。
「いつかきっと買ってあげるから。だからその日まで楽しみに待っていようね」
母の常とう句に今度は私が首を横に振る。ヤダ、と連呼した。
いつもだったら母の言葉を素直に受けていたけど、その時の私は子供の勘というか、ここで買わなかったら二度と買えないんだろうという思いが走っていたのだ。
私は諦めきれず駄々をこねる。さんざんわめいて、それはスーパーの隅から隅まで響いて。そして次の瞬間、私は母に平手打ちされたのだ。
叩いた直後、母は私を抱きしめた。ごめんね、と言いながら涙をこぼしていて。母に先に泣かれてしまったせいで私は泣くことすら忘れてしまった。
いつかね、きっとね。
何度も繰り返される「いつか」にウチは他の家と違うんだなということを改めて思い知らされたのである。
その後手術は成功し、開発された新薬のおかげで父は奇跡的に回復した。
父が復職すると我が家は人並みの生活を送れるようになり、母の心にも余裕が生まれた。けど私の中であの出来事は消えず、使い古された言の葉は私にとって禁句となった。
実際、母はかなり苦労していたのだと思う。長引く治療で生死の不安を漏らす父の前で母は気丈を強いられた。あの頃は精神的にもかなり追いつめられていたのだと今なら分かる。母はあの事を相当後悔していた。だから私も責めない。
私は皿に残った残りの一切れを口に入れる。もともと伯母の顔を立てるための見合いだったけど、相手の真摯さに正直心がぐらついた。でも夢を語る彼の側にずっといられる自信がない。
だから私は言葉を紡ぐ。それはとても素敵な夢ですね、と。
「そうですか?」
照れる男性に私は言葉を重ねた。
「その時は私よりももっと素敵な人が貴方の隣りにいるはずですよ」
「え?」
「では失礼します」
私は席を立って一礼する。相手に一度微笑むとくるりと踵を返した。
2014
私は私物を詰め込んだ段ボールを両手で抱えると、地下へ繋がる階段を下りていた。箱の上には先ほど渡された辞令が乗っかっている。大きく打ち出された辞令の文字の前四葉のクローバーが描かれている。これは前の部署の後輩が私に幸運が訪れますように、という意味をこめて書き加えたらしい。
けど今の私にハートを繋げただけのクローバーはいたずら書きとしか思えない。頑張ってくださいね、と後輩は涙を浮かべながら私を見送ったが内心笑ってたんじゃないかとさえ思ってしまう。
はっきり言おう。この先は地獄だ。どう転んだって幸せになれるわけがない。
これから向かう資料管理課は過去の社内文書を時系列順にデータベース化し管理するのが仕事だ。それは広報の仕事とも違う。私たちが取り扱うのは取りとめのない伝達事項がほとんどだ。
過去となってしまった業務連絡を保存しておく意味など最初からない。つまりこの部署はなくても構わない場所。世間一般でいう所の追い出し部屋なのだ。
私は深いため息をひとつつく。本当、どうしてこんなことになったんだか。
新しい部署に行くにあたり、私の給料は今の三分の一ほど削減されるらしい。ここまで徹底しているとこっちも怒るを通り越して呆れてくる。
お望みどおり辞めてやれと思ったりもしたけど、再就職のあてがない今、すずめの涙ほどの退職金を貰って自由になるのも時期尚早な気がしてならない。腐っても会社は会社。稼がなきゃ好きな物も買えやしないのだ。
大卒で入社して五年。それほど飛び抜けた才能もないけれど、それなりに頑張ってきたと思う。会社が迷惑だと思うような行為は一切してないはず。
なのに嵐は突然訪れた。突風に吹き飛ばされた私はそのまま崖から海の底へと転落してしまったのだ。
深海への道を歩く私の足が止まる。地下一階にある扉の前に掲げてある看板を睨んだ。
この先にあるのは地獄か、はたまたそれ以下か。
私はぐっと拳をつきあげると、古めかしい扉をノックした。
2014
坂道の途中で話を振られて私はどきりとした。
「な、何を急に」
「例えばの話だって。サクちゃんはどっちを取る?」
コバの屈託のない顔に私は本気で困ってしまう。
どっち――って。
私は、私は……。
「何の話をしてるんだ?」
迷っている私の後ろで低い声が響く。私は思わず肩を揺らした。口元に手を当てて、叫びたい気持ちを必死で堪える。その隣でああカッちゃん、とコバが言う。
「あのね。友達の恋人好きになったら恋と友情、どっちを取るかって話してたの」
「ふーん」
カッちゃん先輩は友達と私を交互に見る。ひょっこりと現れた先輩と目が合いそうになって――咄嗟に私はうつむいた。
先輩と目が合うたびに私の脳みそは沸騰する。ドロドロの液体になって思考回路が停止してしまう。心臓がバクバクして、今にも破裂しそうで。なのに表情は緩みっぱなしで。
「コバはどっち?」
「私は友達かなぁ。身を引いちゃうかも」
「嘘つけぇ。おまえは完全なる肉食だ。俺に告った時も同級生出し抜いて襲いかかってきたじゃんか。だよなぁ?」
先輩に同意を求められ、私は俯いたまま小さく頷く。カッちゃん先輩は男女かまわず慕われている。面倒見が良くて特に後輩からは今も熱い視線を投げられる位だ。先輩の争奪戦は熾烈でその勝者となったのがコバである。
私もとてもいい先輩だと最初は思った。モテすぎる人だから間違って恋愛対象になったらと大変だろうなぁ、そういうの自分には無理だなぁ、と。
だから今の展開に私はひどく困惑している。まさか、まさかとは思っていたけど。
しばらくはこういったのから避けたかった。なのに――どうしてこうなっちゃうのよ。ついこの間、恋と友達をいっぺんに失ったばかりじゃない。
私は苦い過去をぐるぐるとさせる。そうこうしている間に話題は方向を変えた。
「これから本屋寄るんだけど、行く?」
「私も一緒に行ってもいい?」
「もちろん。よかったら柵山も一緒にどう?」
「私は……いいです。どうぞ二人でごゆっくり」
感情を必死で押し殺した私は手を差し出すとどうぞお先に、と誘う。形式上の挨拶だけ済ませて二人と別れた。 二人の背中を見送ったあとで私は絶望感に打ちひしがれる。己の惚れっぽさが恨めしかった。
私の恋はいつもそう。好きになる相手は友達の彼氏とか彼女持ちの男の人。相手の事を考えて何度も身を引こうと思うけど、私は何においても正面突破がデフォ。だから背水の陣で相手にガツンとぶつかって玉砕してしまうんだ。
あーなんでこうなっちゃうんだろう。
本来私はひとのモノを欲しがる人間じゃなかった。目新しいものを見せられていいなと思ったことはあったけど、欲しいなとまでは思わなかった。
やっぱりアレかな。中学からがっつり部活に打ち込んだせいかな? 負ける試合だって感じていても体育会系は諦めない。諦めたら試合終了だって、そんな言葉にずっと捕らわれて。後悔をしたくないのならやっぱり自分の気持ちに素直になるべきだと思っていた。
でも同じことを繰り返しているうちにそれでよかったのかと疑問が浮かぶようになった。自分のしたことが正しいのかわからなくて――
だから一度だけいつもと反対の行動を取ってみたことがある。諦めることで全てが収まるのかと思ったらそれはそれで大変で。結局私の気持ちは友達にバレてものすごーい気まずくなったのだ。
そこで私が学んだのは何が正しいのかは分からないってこと。告っても告らなくても傷つくひとは確実に一人いるんだってこと。
今度私は誰を傷つけるのだろう。私? コバ? それとも――
ああ、こんなのはもう嫌っ。何もかもふっ飛ばしたい。
私はもろもろの感情を目の前にある坂道にぶつけた。わあああっ、と大声を上げて全力疾走する。通りすがりのババアに白い目で見られたけど完全に無視した。