2014
放課後の教室は茜色。きちんと整列された机に木の影が差している。窓を見やると真っ赤な太陽が樹木によって真っ二つに割れていた。真っ黒に焦げた枝の数々が私をじっと見据えている。こっちへおいで、と誘っている。
私は一瞬だけ躊躇ったけど、勇気を持って一歩踏み入れた。教室には誰もいないけど本当は中に入るのすら恐れ多い。
本来ならこの場所に私は居てはならないのだから。
私は見えるのに見えないもの、あってないようなもの。この学校の生徒だけど、誰にも知られてはいけない存在なのだ。
生徒はもちろん、先生と接触してはいけない。他の子が授業を受けている間は保健室から一歩も出ることはできない。
その間、私は白いカーテンが引かれたベッドの上で勉強をする。教科書を読み、問題をひとつひとつ解いていくだけだ。分からない所は養護の先生が教えてくれるけどそれにも限界がある。そんなときは図書室の本が私の先生になってくれた。
私の一日は家と学校との往復。登下校は車だから外の空気を感じることもできない。常に籠の中の鳥。でも家に閉じ込められていた頃よりずっとましだ。
私の存在は稀有だから大事に育てられている。でも、それは体のいい言い訳でしかない。私を自分の手駒にしたい。だから逃がさないよう檻の中に入れている。私が幼い事を理由に支配しているのだ。
私が学校(ここ)にいること、それは私の反抗であり自由なのだ。
私は窓辺に佇む。横に大きく広がる枝を見上げた。
もう少ししたら蕾が出るだろう。大きく膨らんで、いずれ綺麗な花を咲かせるだろう。
私に与えられた自由は限られている。いつそれを失うかもわからない。でも貴方が咲くまで私はここにいる。
「もう少しだけ、頑張るから」
小さな決意を押し殺すように私は呟いた。
2014
ヒロトは幼稚園の頃からの友達だ。うれしい時もヘコんだ時もいつも一緒にいる、マブダチってやつだ。そんなマブダチが、放課後、真面目な顔で俺に言ってきた。
「ちょっとソウダンしたいことがあるんだけど、今日僕の家にきてくれる?」
いつもと違うヒロトに俺は首を横にかしげつつ、分かったと言う。放課後、家に帰ってランドセルを置くとヒロトの家に向かった。
ヒロトの家は二つ先の角にある一軒家だ。見ればちょうどヒロトがインターホンを押している。俺が声をかけると同時に家の扉が開いた。
「おかえりー」
俺たちを出迎えてくれたのはヒロトのお母さん。ヒロトのお母さんは若くて綺麗でとっても優しい。ウチの母ちゃんやミカコとは大違いだ。
「あら健太郎くんも一緒?」
「僕が呼んだんだ」
むすっとした顔でヒロトが言う。
「それよりも。僕の部屋に勝手に入ってないよね?」
「入ってないわよ。おやつ、テーブルに置いてあるから」
「あっそ」
俺はヒロトのそっけない態度に少しだけ驚いていた。だって、ヒロトと博人のお母さんはすごく仲がいいところしか見てないから。ヒロトがこんな態度を取るなんて思いもしなかったんだ。
「ケンタロウ行こ」
ヒロトに腕を引かれた俺はおじゃまします、と一言声をかけてからついていく。
ヒロトの部屋は二階だ。ヒロトは扉の前に立つと、僕の方を向いた。
「この部屋の中の事、誰にも言わないって約束してくれる?」
真面目な顔でヒロトが言うから、僕は顔を引きしめた。ヒロトが扉をそっと開ける。人一人がやっと入る隙間に入って、と言われたので俺はあわてて体を滑り込ませる。
ヒロト相談って何だろう? この部屋に一体何があるんだろう?
ちょっとの緊張と好奇心に包まれながら僕は部屋の中を見る。
ヒロトの部屋は何ら変わりがなかった。勉強机にベッド、本棚には漫画と小説と図鑑が行儀よく並んでいる。
なんだ。いつもと同じ普通の部屋じゃん。そんなことを思ったら突然、目の前を何かが横切った。ひらひらと舞う姿は白い羽根には小さな黒点がついている。
これって――まさか。
「モンシロチョウ?」
俺の言葉に博人は頷いた。
「何? ヒロト飼ってるの?」
「うん。この間、ケンタロウん家に遊びに行った時、野菜あげたよね?」
「うん。鍋にして食ってやったやつな」
トロトロに煮た大根と白菜はとろけるほど柔らかくてすごくうまかった。あの日はごはん三杯もおかわりしたっけ。
「それ、群馬のおばあちゃんが送ってきたものなんだけど、それにくっついてきちゃったみたいなんだ」
「チョウが?」
「正確にいうと、成虫になる前の青虫がね」
話によると、ヒロトは晩ごはんのの手伝いで野菜を洗ってて気づいたらしい。ヒロトのお母さんからは葉ごとゴミ箱に捨てなさい、と言われたけどヒロトはこっそり自分の部屋に持ちこんで飼っていたそうだ。
青虫はすくすくと育ち、やがてさなぎになったという。ヒロトの調べだとモンシロチョウは冬の間はさなぎで過ごし、温かくなってからさなぎから出て成虫になるんだとか。だから博人もチョウは春になってから出てくるものだと信じていた。
でもここ最近はとっても寒くて、日当たりの良いこの部屋もエアコンをガンガン利かせていたらしい。温度は常に二〇度を保っていて――そのせいでチョウは春とカン違いして出てきてしまったのだ。
「ねぇケンタロウ。僕、どうしたらいいと思う?」
真剣な顔でヒロトが聞いてくる。
「モンシロチョウは成虫になったら二週間位しか生きられないんだって。でもこの時期、仲間の蝶はいないし、近くに餌になる花なんてない。だからこのまま家の中で一生過ごさせようかなって思ってた。でもね……」
ヒロトはちらりと窓を見た。そこには羽根を広げたチョウがばたばたと騒いでいる。全身を使って窓を必死にたたいている。
「なんか、外に出たそうだな」
「このチョウはきっと、空が恋しいんだと思う。ねぇケンタロウ。僕はどうしたらいいと思う? チョウをこのまま育てるか、それとも外に放すべきか」
「そうだなぁ……」
俺はうでを組んで考える。ヒロトのソーダンってこれだったんなぁ、と思いつつ。
ふつーに考えれば外に出すのはチョウにとってゴーモンだよな。たぶん外に出たら死ぬんだろうな。長生きしたいなら部屋の中に居る方がいいんだろうな。
この部屋はあったかい。窓のそばには花の咲いた鉢植えある。たぶんヒロトが用意したんだろう。ここでも十分カイテキなんだと思う。
でも――
俺は窓に張り付いたチョウを眺めた。ガラスの上でじたばた羽根を動かしているのを見ているとそっちのほうがゴーモンに思えてきた。
羽根があるのに、もっと先に行きたいのに。このヘンな壁がジャマなんだよ。目の前のチョウがそう言ってるみたいだ。
コイツにとってどっちが幸せかなんて俺にはわからないけど。何がしたいのかは想像がつく。たぶんヒロトも自分がどうすればいいのか分かっているのかもしれない。でもその決心がつかなくて俺に聞いてきたんだ。
だったら俺の答えはひとつ。
「ヒロトが決めろ」
「え?」
「たぶん、俺よりもヒロトの方がコイツの気持ちを分かっていると思う。だから自分で決めろ」
「ケンタロウ」
「ヒロトが決めたことは正しいと俺は思う」
俺はにっと笑う。俺の返事にヒロトは少し黙りこんで、最後にこくりとうなずいた。ゆっくりと歩き出す。
ヒロトが向かったのはチョウがいる大きな窓ではなく、机の側にある小さな窓だ。
こっちの方が河原に近いから、そう言ってヒロトは窓を全開にした。冷たい空気がいっきに部屋の中へ入ると、チョウがふわりと飛んだ。あっという間に空に吸い込まれていく。
そのあとどうなったかは俺もヒロトも知らない。でも、チョウはあこがれた世界に羽ばたいた。だから残り少ない時間を逞しく生きている、そんな気がした。
2014
昼休みに立ち寄った書店で好きな作家の新刊を見つけたので買う事にした。
この時間帯、店のレジはひとつしか空いていない。僕はカウンターに彼女の姿を見つける。僕が小さく会釈をすると彼女がはにかんだ笑顔を見せた。
「カバーはつけますか?」
その質問に僕はお願いします、と答える。本当はカバーなど必要ないのだけど、彼女がレジを打つ時はあえてリクエストする。それは彼女と少しでも長い時間いたいという、邪な考えだ。
彼女は店のロゴが入った紙を引き出しから出しはじめた。どうやらカバーのストックが切れてしまったらしい。机の上にA4サイズ程の紙が広げられるとその上に買ったばかりの本が置かれた。本のサイズに合わせてまずは上下に折りこむ。
彼女は左利きだ。人差し指がせわしなく動くと薬指に添えられた指輪が照明に反射する。
突然彼女の顔が歪んだ。紙の上で滑っていた指が止まる。指が離れると作りかけのブックカバーと彼女の人差し指に赤いものがにじむ。どうやら紙で指を切ってしまったようだ。
僕の顔色がさっと変わる。思わず彼女の手をとった。
「大丈夫っ?」
僕は赤い一本線が入った傷をまじまじと見つめる。指の上にそのあとで痛くない? と彼女に問いかけ――はっとした。
ここは書店で、彼女は店員。そして僕は客。今はこの立場を全うしなければならないのだ。
僕はすぐに彼女の手を離す。
彼女はものすごくびっくりしていたがすぐに表情を戻した。
「すみません。すぐに新しいのを作りますね」
彼女は絆創膏で応急処置すると、新しいブックカバーを作り始めた。今度は中指を使って慎重に折っていく。綺麗なカバーが出来上がると輪ゴムで本を束ねた。
「大変お待たせして申し訳ありません」
平静を装った口調で彼女は言うと、受け皿に乗せられた代金を徴収した。釣銭を乗せたレシートを僕の手のひらに乗せる。できることならこの瞬間に消毒してね、と声をかけたかったけど、人前であんなことをしてしまったし、レジが詰まってしまったので僕はそそくさと退散するしかなかった。
店を出るとさっきまで出ていた太陽はすっかり雲に覆われていた。雨が今にも降りそうだ。雲に隠れた太陽は自分の心を見事に写し取っていて、僕は思わず苦笑してしまう。
後ろ髪をひかれた僕に彼女からのありがとうメールが届いたのはそれから一時間後のことだった。
2014
「そんな薄着で寒くないの?」
僕は痛さを堪えて顔を上げる。極寒の空の下で美少女が眉間に皺を寄せていた。真帆だ。
「そんなトコにいると風邪引くよ」
不機嫌そうな顔で彼女は言うと、もう一度僕を蹴飛ばす。彼女の言葉が行動と伴わないのはいつものことだ。それに彼女は優しい。今だって僕が風邪をひかないか心配してくれている。
だから僕は心配ご無用と笑った。
防寒対策はしっかりしている。高性能のインナーに腰を冷やさないためのカイロ、靴下は二重に履いている。それに何より僕には贅肉という素晴らしいスペックがある――なんて思った所で自分がちょっとだけ悲しくなった。
僕は頭をかくと、真帆を改めて見上げた。そっちこそ寒くないの? と聞かずにはいられない。
制服のブラウスの上に羽織っているざっくりニットは風をよく通しそうだし、膝上スカートからすらりと伸びる生足が悩ましい。北風に煽られないよう、彼女の両腕はプリーツを抑えるのに必死、というかもの凄く寒そうだ。
女子って大変だなぁ。防寒よりお洒落優先で。
その手がなければ絶景が見えるのになぁ。
僕は不謹慎なことを思いつつ。真帆に何の用? と問い返す。
「何の用? じゃないでしょ。今日先輩の誕プレ買いにいくって言ったでしょ」
「それって僕も一緒?」
「当然でしょ。『あの』お店に私一人で行けっていうの?」
真帆は苛ついたような声を上げた。おもむろに胸ぐらを掴まれる。
「先輩がプロレス好きだって言ったのは誰よ。レアな覆面を売ってる怪しげなお店教えてくれたのは誰?」
「僕……です」
「だったら責任を全うしなさい!」
挑発的な瞳が僕の顔に急接近する。その大きさに吸い込まれそうになり、僕は鼻息がひどくなるのを必死に堪えた。
「彼氏に最高のプレゼント贈るんだから。あんたも協力しなさいよ」
僕がこくこくと頷くと真帆の手が僕の服から離れる。首根っこを押さえられた僕は小さくむせた。相変わらず乱暴だなぁと思いつつ、彼女が絡んでくれることがちょっとだけ嬉しくもあったのは僕の胸にだけに留めておこう。
彼氏持ちでクラスでも人気の高い真帆が僕に絡んでくるのは単純に幼馴染だから――というより、都合のいいパシリだから、なんだと思う。そして僕は惚れた弱みで逆らえない。
真帆は小学生の頃、僕の家の隣りに越してきた。
初めて真帆を見た時、おとぎ話のお姫様のような顔立ちに僕はたちまち恋に落ちた。ほとんど一目ぼれだったと思う。わがままでちょっと性格はきついけど、それも彼女の個性なんだと思うとそれも可愛く思えるから不思議だ。、
真帆に気に入られたくて、僕は真帆の好きな物、興味の引きそうなものを誰よりも先に見つけた。もちろん、真帆が嫌がることは絶対にしなかった。小学生にして肥満の烙印を押された僕は真帆に少しでも恰好よく見られたくてダイエットも始めた。
そのほとんどは好意的に受け止められたけど一つだけダメ出しされた。真帆にダイエットなんかするなと言われてしまったのだ。
痩せたらアンタはアンタじゃない。太ったアンタだからみんなイジって相手にするんじゃない。デブだって個性よ。もっと私や周りを楽しませなさいよ。
それを聞いた時、僕は雷に打たれたような衝撃を受けた。太っているのは僕にとってマイナスのイメージしかなかったからだ。
その一件以来、僕は真帆の言いつけをずっと守っている。それを破ったら最後、真帆は俺の元から離れていくだろう。
そんなのは耐えられない。彼女を失う恐怖を味わうぐらいならば、俺はこの立場を甘んじて受けるつもりだ。たとえ周りに笑われ続けても。僕は真帆のために道化師で居続けるつもりだ。
「ほら行くよ」
犬の散歩を促すかのように真帆は言う。
リードを引かれた僕はこっそり笑みを浮かべると、彼女の背中を追いかけた。
美女と野獣? な立場の話。
2014
公園のベンチで本を読んでいると背後から草ずれの音がした。
僕はちらりと振り返る。すると茂みの奥で、小さな女の子が同じ年位の男の子の頬にキスをしているではないか。
「あのね、ゆきはよーくんのことがだいすき」
それは親の目を盗んでの行為だったのだろう。たまたまその場にいた僕だけが密会を目撃してしまったようだ。
ツインテールの女の子は男の子の前でもじもじしながらあのね、と話を切りだす。
「よーくん。おねがいがあるんだけど」
「なぁにゆきちゃん」
「あのね、おおきくなったらゆきのだんなさんになってほしいの」
「だんなさん?」
「えっと、けっこんしてってこと」
あまりにもストレートな逆プロポーズに僕は苦笑した。おまえら幾つだよ、なんてツッコミたくなるけど――
「ごめんね。それはできないんだ」
男の子の返事に思わず身を乗り出してしまった。僕の耳はすっかりダンボ状態だ。
「なんで?」
「あのね、ぼく、おおきくなったらあかねせんせいとけっこんするってきめてるんだ。だからゆきちゃんとけっこんできないの」
「やだぁ」
「でももうきめたことだもん」
次の瞬間、弾ける音が飛んだ。「ゆきちゃん」が「よーくん」にビンタをくらわせたのだ。思いがけない展開に僕は思わず目を見開く。
「よーくんなんてだいっきらい!」
ゆきちゃんの絶交宣言に今度はよーくんが目を丸くしていた。子供の言葉は良くも悪くも直球、諸刃の剣である。ここでよーくんが泣く確率はすごく高い。というか既に泣きそうだ。
ああでもこの場合、加害者のゆきちゃんの方が泣きたいんだろうなぁ。
子供の修羅場に首を突っ込むのも何だけど、どっちも泣いたら元も子もないし。第三者としてそろそろ大人が出てきた方がいいのかなぁ。
そんなこと思いかけた時、空気が変わった。夕方の公園に「家路」の曲が流れ始めたのだ。
歌を合図に子供たちが動き出した。よーくんもゆきちゃんも他の子も近くで井戸端会議をしている親へ向かって走っていく。また明日ね、またね、と声をかけて公園から離れて行く。サヨナラの合唱だ。
一分後、あんなにも騒がしかった公園は私以外誰もいなくなってしまった。
手を繋いで帰る親子の姿、子供たちの素直さが、懐かしさと、ほんの少しの寂しさを引き出していく。
僕もあの年までは馬鹿なくらい親の言う事を素直に信じていた。
家路の曲が流れたら遊ぶのをやめてお家に帰りましょうね。でないと悪い鬼がやってきてさらわれちゃうよ。
親の小さな脅しに私は肩を震わせながらこくこくと頷いたのを未だに覚えている。
まだ幼かった僕にとって知っている世界は家と幼稚園とこの公園だけだった。この小さな箱庭で起きる些細なことも大事件だったのである。
僕は風を乗せているブランコに目を向けた。そしていつだったか、缶ビールがブランコの上に置かれていて使えなかった事を思い出す。
あの時初恋の女の子はブランコに乗りたくて、でも缶をどかす勇気はなかった。そして僕はいい恰好を見せたかったのだろう。その缶を持ってゴミ箱に向かったんだ。
でも途中でずっこけて缶の底に残っていたビールを被ってしまったんだ。アルコールの臭いがなかなか抜けなかったせいで、僕はその女の子に嫌われてしまった。あまりの理不尽さに僕はわんわん泣いたんだっけ。
「何笑ってるの?」
香りの記憶にくすくす笑っていると、ふいに声をかけられた。振り返った先に僕の彼女がいる。茜、と声をかけると彼女の長い髪がさらりと揺れた。
「ごめんね。お迎えの遅い子に付添っていたからこんな時間になっちゃって――結構待った?」
「まぁそれなりに」
僕はそう言って彼女の手を握った。彼女の手の温かさに小さな幸せを感じながら。
よーくんには悪いがこのとおり、僕たちは付き合っている。勿論、結婚を前提で。子供の目からみたらこれは大事件になるのだろう。
近い将来、僕もよーくんに一発殴られるかもしれないな。
僕はそんなことを思いながらそっと肩をすくめた。