2013
それはどこにでもありそうな、小さな小さな鍵だった。
あの世の閻魔大王曰く――これは「極悪人」と呼ばれた俺の唯一の良心なんだとか。俺にはそんな記憶はない。たぶん俺の中ではどうでもいい話で、強制排除されたんだろう。
とにもかくも。生前にしでかした親切とやらが、俺の地獄行きを保留にした。
「おまえが今持っている蝋燭が全て尽きるまでに、この鍵に合うものを探し当てれば地獄行きはなかったことにしてやろう」
閻魔大王の提案に俺は二度返事で承諾した。地獄行きがなくなるってことは当然、行くのは極楽浄土――天国に決まってる。
俺は意気揚揚でこのゲームに参加したわけだが――
これは意地悪問題だろ絶対!
今俺の目の前には無数のドアがある。その半数は錠がついたまま開いていた。残りの半数は固く扉が閉ざされていて、鍵穴すら見当たらない。閉じているドアはもちろん、こちら側から開けることができない。
こりゃ一体どういう事だ?
俺はさっきからない頭を必死に振り絞って考えていた。だが答えは出てこない。
そうこうしていくうちに手持ちの蝋燭は半分以下になっていく。
謎解きに疲れた俺はその場に胡坐をかいた。閻魔大王から渡された鍵を睨みつける。僅かな希望は焦りに変わり、やがて諦めに変わった。
どーせ馬鹿な俺には無理な話だったんだよ。
そんなことを思いながら俺は鍵を放り投げる。鍵は地面に打ちつけられ、変な音を立ててのさばった。あまりにも聞いたことがない音だったので、俺の注意がそちらに引かれる。
すると丁度鍵が地面にぶつかった所に煙突のような突起を見つけた。心なしか、その突起の色は子供の頃、天井裏に隠した宝箱の外装にそっくりで。
俺はゆっくりとそこに近づく。円柱の形をした突起は単なる岩ではなさそうだ。
地面に膝をつく。両手を使って箱の周りを丁寧に掘り出した。徐々にその姿があらわになる。それは確かに俺の宝箱だった。
不思議なことに、箱には小さな南京錠が取りつけられている。そんなもの、当時はつけてなかったのに。
そこで俺ははっとした。
そうだ、ヤツはこれが「扉の」鍵とは言ってなかったんだ。
ということは――
俺は小さな鍵を差し込む。右に捻るとぴきんと音を立てて錠が外れた。
この中には昔流行ったゲームやらどっかのお土産の化石やら鳴らなくなったオルゴールやらが入っていたはずだ。俺は何年振りかに見るそれらを期待して箱の蓋を外す。そっと中身を覗きこむが――
え?
俺はつい、間抜けな声をあげてしまう。箱の中にあったのは大きな渦だからだ。
渦は時計回りに回転するともの凄い勢いで俺を箱の中へ吸い込んでいく。小さな箱に閉じ込められた俺を待っていたのは、水しぶきだった。
液体の中へ放り出された俺はぶくぶくと沈んでいく。もとから死んでいるから息苦しさなど感じるわけがなく――というよりかなり心地よい。
しばらくの間、俺は水の中で漂っていた。くるりと体が回転するとぐにゃりとした感触が襲う。どうやらここは薄い膜のようなもので覆われているらしい。
俺の体が薄い壁に埋もれた。ぎゅうと押し付けられると膜はあっけなく破れてしまった。裂け目から水がどくどくと溢れ、俺は流れともに放り出された。
屋根つきのウォータースライダーに頭から乗せられた俺は右へ左へと体をくねらせる。そのうち道は狭くなり、最終的に俺の体は道を塞いでしまった。その情けない姿が蜂蜜を食べた間抜けなクマと重なる。そのうち壁が自ら動いて俺の体を締め付けてきた。
おいおい、ここが終点とか言わないよな?
これが極楽浄土だと? 冗談じゃない!
そんなことを思った矢先だった。
細く長い穴のずっと先にひとすじの光が見える。
それはきらきらと輝いていて、俺は不思議と確信を持てた。きっとあれが天国に違いないと。
俺は肩を左右に揺らす。体を螺子のようにゆっくり回転させながら先を進んだ。
濡れた頬に空気が触れ、思わず身震いした。
俺の肉体はすでに滅びている。だから体温などないはず。なのに、痛みや冷たさを感じる。自分の中で湧きおこる熱を感じる。
死しても五感は残るものなのだろうか。馬鹿な俺には分からない。
でもこれだけはわかる。あの先に極楽浄土とやらがあるのを。
俺は最後の力を振り絞って光の中に飛び込んだ。外側から一気に引きぬかれる。
数秒後、俺は声を上げて泣いていた。何故泣いていたのかは分からない。嬉しいわけでも、悲しいわけでもなく。ただ泣いていた。
泣きながら、俺は「俺」であることを忘れようとしていた――
****
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
看護士の声を、女性はぼんやりと聞いていた。胸の上に温かい何かが置かれる。それは女性の中で育まれた小さな命だ。
その愛らしい姿に女性の目じりが下がる。やっと会えたね、と囁く声は感動に満ちていた。
添い寝をしてたら思いついた転生話。
2013
うっすらと瞼を開けると、天井に目を逸らしたい「何か」がいた。
私はげ、と言葉を漏らす。
これは悪夢と言ってもいい。いや、悪夢でいい。夢の方がまだましってもんだ。
十年前と変わらぬ、切れ長の目を大きく見開いた男は、こと不思議そうな顔で私に聞いてくる。
「昼間っからゴロゴロしてるなんて珍しい。今日って定休日だったっけ?」
その、のんびりした声に私は目元をぴくりと引きつらせる。その一方で何か凶器になりそうなものがないか頭を巡らせた。
火照った手で枕元を探る。ベッドサイドに固いものが触れた。この感触、前に買った読みかけの本のはず。
私は迷わずそれを手に取る。渾身の力でヤツに向かって投げつけた。本の角がヤツの鼻先にぶつかる――はずが、物体はヤツを見事貫通し天井に一瞬だけへばりついた。
同時に私は思い知らされた。ヤツがすでにこの世の者でないことを――
私が飛ばした本はニュートンの法則に従って落下する。見事私の顔面に激突した。角には当たらなかったけど、ハードカバーだったから半端なく痛い。これこそ泣きっ面に蜂っていうんだろうか?
「大丈夫か?」
ベッドの上で悶える私にヤツが聞いてくる。
私は痛み消えぬ状態でぼそりと呟いた。
「……るな」
「え?」
「話しかけて来るな。今日は相手する暇もない」
「暇も何も――暇じゃないのか?」
お気楽幽霊のボケに、すでに沸騰状態の私の頭がはち切れる。
見てわからないのか! と反論しようとした時だ。
私の口がひゅう、と悲鳴を上げた。吐き気にも近い咳が私を襲う。うずくまったまま小刻みに肩を揺らすと、喉から鉄にも似た味がこみ上げてくる。
「なるほど、風邪をひいたのか」
流石のヤツも私の弱りぶりに気づいたらしい。大丈夫か、と人並みに声をかけてくれるが、何せ相手は幽霊。生前に私を捨てた男の言葉は心にこれっぽっちも響かないわけで。
本当なら成仏し損ねた馬鹿男を蹴り飛ばして追い出してやりたいが、それをするまでの体力がない。
私はヤツに背を向けるとはぁ、と深いため息をこぼす。
風邪をはじめとするもろもろの病気は、おひとりさまの私の体力気力を相当奪う。
実家は遠いし平日に頼れる友達は少ない。二つ先の駅に嫁いだ妹はいるけど、子供がまだ小さくて手がかかるだろうし――風邪ごときで呼びつけるもの何なわけで。
だから私は一人で病気に立ち向かうしかないのだ。
とりあえず気合いで病院までは行った。コンビニで栄養剤とゼリーとスポーツドリンクをゲットした。布団周りに必需品だけ置いて、巣ごもりの完成だ。安静にしていれば明日には熱も下がるだろう。
「そういうことだから。今日は私に関わらないで」
私は手をひらひらと振ると、再び瞼を閉じた。薬がまだ効いているのか、瞼が重い。眠りにつくのにそう時間はかからなかった。
再び目を覚ました時、人の気配を感じた。
側に誰かがいる。最初はヤツかと思ったけど――違う。
背の高さも髪の長さも、性別も。
「知香?」
私のかすれ声を聞いて、本を読んでいた妹がくるりと振り返った。
「あ、起きた?」
「起きた……けど」
なんで? と言いたげな私に向かって妹は呆れた顔をする。風邪ひいたなら私に言いなさいよ、と最初に愚痴をこぼされた。
「虫の知らせっていうの? お姉ちゃんから貰ったグラスが突然割れちゃってさー。なーんか気になって携帯かけたら全然出ないし、お店に電話かけたら休んでるって話だし。管理人さんに頼んで鍵開けてもらっちゃった」
今日はこっちに泊まるから、と妹は言葉を続けた。
「お姑さん子供の面倒頼んだし。旦那も今日は早く帰ってくるって」
丁度その時、私の腹の虫が鳴いた。お粥作ったから持ってくるね、そう言って妹は席を外す。
部屋に取り残された私は妹が来てくれたことに感謝する。こういった虫の知らせって本当にあるんだなぁと思いながら。
グラスって、結婚祝いに送ったやつかな。あれは奮発したんだよね。
そんなことを思いながら何気なく窓を見やるとベランダにヤツの姿を見つけた。
寒空の中でヤツは満足げに笑っている。手をひらひらと振ると北風に身を任せ何処へと飛んでいってしまった。
やけにご機嫌の様子だけど、何かいい事でもあったのか?
私が小さく首を横にかしげると、妹が小さな土鍋を持って部屋に戻ってくる。
「さあどうぞ」
渡されたれんげでお粥をすくうと口をつけた。見た目はシンプルな卵粥だけど隠し味に使われた魚醤に懐かしさを覚える。
料理上手な妹は母親の味を見事に引き継いでいた。
「美味しいでしょ?」
ドヤ顔で妹が聞いてくる。笑った時の顔が母親にそっくりだ。身も心も温かくなった私にちょっとだけしょっぱいものがこみ上げた。
80フレーズⅡ「32.堪え切れない衝動」のキャラたちで。
このネタは今週体調を崩して、家族の温かさに触れたから出たのだと思う。
2013
「あ、ありがとう……」
情けない恰好ではあったけど、私は背の高い彼にお礼の言葉を述べる。すぐにその腕から解放されるものだと信じて疑わなかった。
けど――
ふっと目があった次の瞬間、彼の腕が力強く私を引き寄せる。
突然のことに私は小さな悲鳴を上げた。彼にすっぽりと包まれてしまった私に沢山の疑問符が湧く。
唯一自由のきく顔を上向きにすると、背の高い彼の顔が見える。その瞳は真っ直ぐに私を見据えていて、熱を帯びていた。
彼の真剣な眼差しはこれまで何度も見たけれど、今目の前にいる彼はそのどれにも当てはまらない。
見たことのない彼の一面に私の体温が急上昇する。胸がどきりと疼いた。
ゆっくりと彼の顔が私に近づいてくる。強く抱きしめられた私はその場から動くこともできず、声も上げられない。その位私は動揺していた。
お互いの息づかいがはっきり聞こえる所まで近づいて、彼の動きが一度止まる。その唇が嫌? と問いかける。
正直、この瞬間でそんな質問投げかけないで、と思った。
流石の私もこの距離でこれから何が起こるのか、想像できないほど鈍感じゃない。
彼の目を見ることができない私は雨上がりの土に目を落とした。鼻先に土の香りがふわりと届く。
私は考えた。偶然とはいえ、彼と抱き合う恰好になってしまったこの状況。
何も言わなければ私の唇など、いとも簡単に奪えたはずだ。でも彼は私に触れることを一度躊躇った。もしかしたら彼の中にある理性が、それを踏みとどまらせたのかもしれない。
彼は私に何があったのかを知っている。たぶん、私の気持ちを気づかって――だから嫌なのかと聞いてきたのだろう。
私はまだ、己の気持ちが分からない。過去の柵から抜けだすことができたのか、それすら分からない。
でも今繋がれている手は離したくないと思った。この手を離したらきっと後悔する。そんな気がした。
私は少しだけ目を伏せて、首を横に振る。心臓がどくどく波打って、それがとてもうるさくて、彼が返事をしたのかどうかもわからない。
否、返事なんてものはもともとなかったのかもしれない。
体を強張らせた私の頬に彼の手がそっと触れた。顔を持ち上げられた私は再び彼の顔を目の当たりにする。
今までで一番近い場所で見る彼の瞳は穏やかで優しい。
できればその目をずっと見ていたい――そう思ったけど、流石にそれは恥ずかしくて。私は瞼を閉じることに集中した。
キスされる直前のあれやこれや。固有名詞は使わなかったけど、あの二人のそう遠くない未来の話。
2013
部屋をあとにした私たちは再び地下道に戻った。数分ほど歩いたあとで石階段を登り最後のドアを開ける。錆ついた扉の向こう側に見えたのは大きな満月だった。
地上では斉藤くんたちが私たちの帰還を待っていた。だけど彼らの表情はどこか神妙で――その理由は後ろにいるいかつい人達のせいなのかもしれない。それは数にして二十ほどだろうか。
あっという間にニシは黒づくめの男の人達に包囲される。これはあの女の手下に捕まったわけじゃない。彼らはニシの護衛で、家を抜けだした主を迎えにきたのだ。
「晃さん、一人で家を抜けだすなんて――無茶をするのもいい加減にしてください、それにその恰好……」
お付きの人の声にニシは大したことない、とつっぱねた。そのままお付きの車に連行されていく。別れの挨拶も感謝の気持ちも言いそびれたまま、私はニシと離れ離れになってしまったのである。
結局、その日はここで解散することになり、私は久実の家に泊ることになった。実は私が攫われた時、久実は私の両親に自分の所に泊めるからと連絡したらしい。親友の気転は私が一番心配していた所だったのでとても助かった。
「ありがとう久実」
私の口から感謝の言葉がするりと抜ける。でも久実はどこか不機嫌だ。
「どうしたの?」
「その言葉、私の前に言うべき人がいるんじゃないの?」
そう久実は言う。それから私が捕らわれている間のことをとつとつと話し始めた。
ニシが私を本当に心配していたこと、黒づくめの人達が急遽使えなくなって、斉藤くんに頭を下げてまで頼みこんで私を助けようとしたこと――
「ナノちゃん、今度こそニシにお礼言いな。メールでもいいから絶対。でなかったら絶交だよ」
あまりにも真剣な顔で久実が言うものだから私は首を縦に振るしかない。
本当は私も分かっていた。ニシには感謝すべきことが沢山あるということを。ニシの放つ親友という言葉が枷になって素直に口に出せなくなっていることも。
ヤツとは関わりたくない。でも感謝の気持ちは伝えなければならない。
私は先ほど取りかえした携帯を持った。メール画面を開き、しばらく考える。回りくどい表現も何だったのでシンプルに決めることにした。
本文に打ち込んだ四文字は猛スピートで空を飛んでいく。これを読んだ時のニシの反応は想像しない。そう、これは人間としての最低限の礼儀なのだから。
その日の夜、私は夢を見た。
教室に作られた舞台の客席で着ぐるみショーを見ていた。舞台ではふわもこの動物たちがヘビロテした曲に乗ってキレいいダンスを見せている。
そのうちぴょんぴょん跳ねていた兎がくるりと宙返りを決めた。兎がふっと振り返る。すると愛らしい顔の部分がニシの顔へと変化した。
曲が間奏に入り、ニシが舞台を跳ねながら降りてくる。客席にいた私に手を差し伸べた。一緒に踊ろうと誘ってくる。
私は渋々、というよりしょうがないなぁ、という感じで立ちあがった。ステージに立つ。これまでに何度も繰り返し練習した曲を兎のニシと一緒に踊る。
こう言っちゃあ何だけど、それは楽しい時間だった。
本当に、これが夢であることを忘れる位に――
翌日、私は久実と学校へ向かった。
空はとても高く、空気が澄んでいる。太陽は吹き抜ける風もちょうどいい。文化祭にもってこいの小春日和である。
いつもよりも三〇分早い到着なのに通学路はとても賑やかだ。みんな今日のお祭りが待ちきれなかったのだろう。校門に突如建ったアーチは誇らしげな表情を見せている。
そして――
「あれ?」
気がつけば校門の前に立ちはだかる人物がひとり。今日も縦ロールがバッチリ決まっている彼女は、苛々した表情で茜が丘の生徒たちを睨んでいるではないか。それは品定めというより誰かを探している様子で。
「こんな所で何してるの?」
久実の声に縦巻き女――もとい、巽芹華は肩をびくりと揺らした。後ろにいた私を見つけるなり唇を震わせる。
「あ、あんた、何時の間に……」
「昨日は素敵なおもてなしをありがとう。おかげで楽しい夢を見ることができたわ」
私がにっこりと笑って宣戦布告すると、相手の眉がぴくりと上がった。やっぱり、と言葉が漏れる。
「昨日の騒ぎはあんた達のせいなのね? 晃さんを誘惑してあんな――卑劣極まりないわ!」
ぎゃあぎゃあとわめく巽芹華に私と久実は顔を見合わせた。わざとらしく腕を組んだり、頬に手をあてて、そうかな? と声を揃える。
「何を誤解してるのか分からないけど、卑劣だった?」
「今日文化祭に来るって聞いてたから、ひと足早く花火で盛り上げただけなんだけどなぁ」
「それって前夜祭ってやつ?」
「そうそう。庶民の祭りを雰囲気だけでも味わってもらおうかなぁーと」
「何が前夜祭よ!」
シラを切り続ける私たちに巽芹華はとうとうブチ切れた。
「あんたたち、私を馬鹿にしているの? こんな事をしてタダじゃ済まな――」
その時、急に周りがざわめいた。通行人の何あれ、と指さす方向に私たちは目を奪われる。
駅の方からぞろぞろとやってくるのは兎の面を被った高校生の集団だ。その愛らしさとインパクトで他の生徒たちが否応なしに道をあけて行く。携帯のシャッター音がやたら響いていた。
集団の先頭を歩いていた兎が私たちに気づきおっす、と声をかけてくる。案の定、中の声は斉藤くんだ。
予想外の展開に久実がぷはっ、と吹き出した。
「なにあんたたち。その恰好で登校してきたの?」
「その方が目立つし、文化祭の宣伝にもなるだろう?」
「そりゃそうだけど」
久実は巽芹華をちらりと見やった。そのあとで捕まってパイにされても知らないからねー、なんて冗談をかます。縦巻き女の体がぴきりと固まった。
兎たちは了解、と敬礼をしたあとでぴょんぴょんと跳ねていくと、おどけながら手作りのアーチの中へと入っていった。
「ほんっと馬鹿なやつらで困っちゃうわ―。あら? 顔色悪いけど大丈夫?」
「な、なんでもないのですよ……」
「ああそうそう、あんたにも見せたいものがあったんだ」
これどうぞ。
そう言って久実は制服から一枚の紙を差し出した。それは昨日久実が携帯で撮った寝顔の写真だ。
「さっき写真部の人に見せたらこんな芸術的な被写体はめったに見られないって褒めてくれてね。パネルに伸ばして教室に展示しようって話になったのよ。タイトルは――」
「いぎゃあああああああっ!」
巽芹華はものすごい悲鳴を上げると脱兎のごとく逃げて行った。あまりの早さに私たちは目を丸くする。
「見た? あの顔」
久実の嬉しそうな顔に私は頷く。あの様子なら当分私たちに悪さする余裕も出てこないだろう。
――事前に様々な困難はあったものの、茜が丘高校文化祭は予定通り始まった。
ご当地アイドルAKNのショーはすでにチケットは完売しており、前評判も上々だ。
私たちの出し物もいよいよ盛り上がってきた所だが、我が一年E組の問題が解決したわけではなく――というのも、いつまで経ってもニシが来ないのだ。
AKN劇場の第一回公演まであと十分。
教室に作られた客席はすでに満員だ。舞台ではオタダンス役の生徒二人が公演の際の約束や盛り上げ方をレクチャーしている。
会場前の廊下でスタンバイをしていたクラスメイトたちは何時まで経っても来ない新入りに一抹の不安を感じていた。そのうちの一人が本当に来るのかな、と言葉を落とす。
それをきっかけにクラス全体がざわめいた。
私は自分の身なりを確認しながら、雑念と格闘する。
あれからニシの返信はない。音信不通だとニシが勝手に家を抜けだしたことで、何かあったんじゃないかと変な想像まで走ってしまう。私は手を組むと全てはうまくいくと自分に念じ続けた。
ただでさえ緊張が走るこの瞬間、ネガティブ感情はあっという間に感染するから危険だ。今だって誰かが不安をこぼしている。
「このままじゃまずいよ。やっぱり看板の数字変えた方が――」
「いや。アイツは来る」
その一言にみんながえ? と声をあげた。振り返った先には斉藤くんの自信に満ちた顔がある。
「ニシは一度決めたことは最後までやり通す漢だ。だから数字は38のままでいい」
彼の言葉にだよな、と同意したのは久実をはじめ、昨日の前夜祭に加担したメンバーたちだ。彼らの笑顔が他のみんなの不安をとりのぞいていく。すぐに気持ちが上向きになった。
さすがはムードメーカー。こういう時は頼もしい。
気持ちが多少落ちついた所で、教室から小気味良い拍手が届いた。客が開演を待っている。私達の出番はもうそこまできている。
そして誰かが円陣を組もうと言った――その時だ。
ばさりと何かがはためいた。私は顔をあげ、音のある方に集中する。
こちらに向かって颯爽と歩くのは黒いマントをまとった御曹司。
俺様で空気読めなくてとんでもない勘違いだけど、友のためなら地位もプライドもあっさり捨てられる――そんな奇特なヤツはこのクラスにすっかり溶け込んでしまったらしい。
遅れてやってきたルーキーに皆がわぁっ、と歓声を上げた。
(文化祭編 了)
以上で東西コンビの話は終わり。ぶっちゃけここまで書くのに疲れた……というのが本音だ。
次回からはまた一話完結の掌握に戻る予定。
2013
下へ降りる梯子は延々と伸びている。その深さは半端なく、ちょっとでも踏み外したら怪我どころかあの世に行ってしまいそうな勢いだ。
だから私は慎重に一段一段を降りて行った。
数十段を超えると外の灯りはほとんど見えなくなり、全てが闇に覆われる。梯子の周りはレンガの壁でぐるりと囲まれてしまっているため、ここが何階なのか、まわりで一体何が起きているのかが分からない。
やがて長い梯子がぷつりと途絶える。地面に足がついたところで、兎はようやくマスクを外した。腰につけていた懐中電灯を手に取りスイッチを入れる。小さな灯りに映し出される顔はやはりというか何と言うか。すっかり見慣れてしまったこの顔に私は思わず苦笑を浮かべてしまう。
「どうした?」
首をかしげるニシに私は何でもない、と返した。被っていたマスクを剥がしてふう、と一息つく。髪を整えて振り返ると、ちょうどニシが大きな紙を広げていた。
「ここは何?」
「この家の家族しか知らない地下道だ。屋敷の外に繋がっている。もとは戦時中に使われていた防空壕だとか」
「こんな場所よく知ってたわね。あの女に聞いたの?」
「いいや。この家を訪れること自体が初めてだ」
「え?」
「ヒガシを救出するにあたってこの家の設計図を買ったんだ。これはヒガシを助けるのに一番必要なものだったからな。ニシ家のつてをたどって、無茶を言って手に入れた」
「そうなんだ」
「ここに来るのもかなり大変だったんだぞ。一度家に帰って、わざわざ変装して抜けだして――全く恥ずかしいったらありゃしない」
「へー……ぇ」
女子の制服を着たまま愚痴をこぼすニシに私は間延びした声をあげてしまった。攫われた時点であまり期待はしてなかったけど。でもニシが助けに来るなら自分の護衛たちを使うんじゃないかと思っていたのだ。
だから目の前に当人がいることにかなり驚いている。
どうして来たのと聞いてみたかったけど、きっと勘違いした答えが返ってきそうだから、そのへんは割愛しとこう。
図面とにらめっこをしていたニシがこっちだ、と言ったので私はついていく。狭い通路をひたすら歩いた。屋敷の中もそうだったけど、この地下道もかなり複雑だ。しかも足元が悪くてつまずきそうになる。
しばらく歩くと、反対側に小さな光を確認した。近づく足音。光は徐々に大きくなってくる。懐中電灯をもったままニシなの? と聞いてきたのはウチの高校の制服を着た――兎の仲間だ。
「あ、ナノちゃんだ。ってことは救出成功したんだね」
その声に中身の人間が久実だと私はすぐに気づいた。
「こっちは上手くいったよ。花火はあんな感じに使ってよかったかな?」
「上等だ。斉藤らはどうした?」
「あいつらなら心配ないよ。もともと逃げるのが得意なヤツらばっかだし。むしろ楽しんでた気がする」
「それは頼もしいな」
久実の報告にニシがふっと笑う。突然斉藤くんの名が出てきたから私は疑問符がいっぱいだ。そんな私に久実はにやりと笑う。詳しい事はまたあとでね、と言われてしまった。
「それにしても――意外にあっさりと屋敷の中に入れたね。セキュリティ、もっと厳重かと思ったのに」
「こういった脱出路はアナログな方が有効なんだ。緊急時はもちろん、もろもろの悪事を隠すのにも抜け道は必要だし。そんなのに監視システムをつける必要はない」
「なるほどね」
「確かに巽家の情報の早さはニシ家を凌ぐものがある。しかし対処と真実性に乏しい。だからいつまでも国内止まりのままなんだ。ITで世界を牛耳るならそのへんから対処しないと」
財閥の御曹司らしい台詞に久実は肩をすくめた。
「そりゃごもっともな意見だね。で、一つ聞きたいんだけど」
「何だ?」
「ここにある扉は何なの?」
久実は地下道の壁にぽっかりと浮かぶ扉を指で示した。ニシが設計図を広げる。紙の一点を指でたどったあとでふむ、と唸る。
「この先は巽セリカ――あの女の寝室のようだな」
「え?」
こんな地下に寝室? なんで?
「この部屋、普段は家の最上階にあるんだが緊急時は部屋ごと地下に沈むようになっているらしい」
ニシの説明に私はぽんと手を叩いた。なるほど、地震の正体はそれだったんだ。
「設計図を見ると部屋の壁も防音仕様になってる。もしかしたら――あの女、今外で何が起きてるかもわからないのかもしれない」
「まさに箱入り娘って?」
久実の冗談に私とニシは顔を見合わせる。同じことを想像したのか、お互いに苦笑が広がった。
ニシがドアノブに手をかける。扉には鍵がかけられてないようで、私たちはあっさりと部屋の中に入ることができた。
中は照明が落とされていて、とても静かだ。私は暗闇に目が慣れた所で室内を注意深く観察する。部屋の手前にはドレッサーと机が置かれ、中央の壁際に天蓋のついたベッドがある。私たちが入ってきた扉もぱっと見は年季の入ったクローゼットの扉にしか見えない。見事なカモフラージュだ。
机の上で何かがちかちかと光っていたので、私はそれを手にした。自分の手のひら位の長方形は触るとやけにしっくりくる。それは私が新しい携帯を「これ」に決めた瞬間に等しくて、指を滑らすと見覚えのある待ち受け画面が迎えてくれる。
一方、久実はベッドにそっと近づくと、天蓋のカーテンに手をかけていた。柔らかそうな布団に女の人が眠っている。久実を追いかけた私は見たことのない顔に誰だこれ、と聞いてしまう。今度は久実とニシが顔見合わせる番だ。
しばらくしてニシのなんとも言えぬ表情が私に映る。
「だから言っただろう。ここはおまえを攫った女の部屋だと」
ええと、それはつまり――
私は与えられた情報を元に思考を巡らせる。全てを理解した瞬間、大声で叫びたい衝動に襲われた。
だって、額は広いわまつ毛は短いわ、目に対して鼻がやたらでかいし――
つうか、あの顔は作りものだったってこと?
「素っぴんがこんなだなんて、とんだ化け物よね」
呆れた顔をした久実が持っていた携帯で女の寝顔を撮る。シャッター音で起きてしまうんじゃないかと思ったけれど、縦巻き女は深い眠りについていて、ぴくりとも動かなかった。どうやら寝つきはかなりいい方らしい。
「ナノちゃん、ちょっと枕をどけてこの女の頭支えてくれる?」
「なんで?」
「いいから」
せかす久実に私は仕方なく動く。女の頭を両手で抱えると、久実は自分がつけていたマスクを女の顔にかぶせた。すぐに脱げないようマスクと服の間を安全ピンで繋ぎとめてから枕を戻す。
「予定とはかなり違っちゃったけど、まぁいいわ。明日どんな顔で学校で来るのかが楽しみー」
にやにやと笑う久実はとても楽しそうだ。私はあれ? と思う。
「もしかして、明日来る客って――?」
「そう。本当なら明日『これ』で驚かせるつもりだったんだけどねー」
「……この人、兎が駄目なの?」
「らしいな。調べによると小さい頃、英国にいる祖父母にかの物語を延々聞かされてトラウマになったとか」
「ナノちゃん知らない? あの兎すっごい可愛いけど話の内容はかなり残酷なんだよ。主人公のお父さんは人間に捕まってパイにされちゃってるし。あと団子にされかけた子猫の話とかあったかな?」
久実の解説に私はうげ、と言葉を漏らした。まさか、あの話にこんな裏があったとは。
私は兎面の寝姿をまじまじと見つめる。この女が起きた時にどんな騒動が起こるのかを想像したらこっちの顔もにやけてきた。
この女には散々な目に合ったし、色々言いたいこともある。できるものなら平手の一発でもお見舞いしたい所だ。
でも――
私は隣りにいる久実とニシをちらりと見る。二人の――いや、みんなのおかげで助かったのは紛れもない事実。それにこんな奇妙なお土産を置いてくなんて。
「ま、いっか」
私は肩をすくめて諦めた。行こう、と二人を促す。
明日は待ちに待った文化祭だ。ここに来るまで色々あったけど、今はゆっくり体を休めなきゃ。
「良い夢を」
私は眠り姫に囁きくるりと踵を返した。