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もの書きから遠ざかった人間のリハビリ&トレーニング場。 目指すは1日1題、365日連続投稿(とハードルを高くしてみる)

2024

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2013

0616

 彼女宛てのメールを飛ばすことなく、俺は立ち上がった。ゆっくりとした足取りで会社を出て駅へ向かう。こんな日は酒でも飲まないとやってられない。俺の足は自然と繁華街へ吸い込まれていった――

 パソコンにここまで打ち込んだあと、何かの気配を感じた。
 私はそちらに目をやり――ぎくりとする。寝てたはずの息子が布団の上に座っていたからだ。目を覚ましたばかりなのか、息子は辺りをきょろきょろしながら、誰かを探している。パソコンの前にいる私と目があってから、ふぇえと情けない声をあげる。私にはその泣き声が、ふざけんな、と怒っているようにしか聞こえない。さっきまで一緒にいたじゃないか。腕枕してたじゃないか。またすり抜けの術を使いやがったな、と。
 はいはい、申し訳ありません。お母さんが悪うございました。
 私は心の中で呟くと息子の所へ向かった。抱っこし背中をトントンする。すると寝かしつけるんじゃねえと反抗された。私は壁にかかった時計を見る。時刻は三時半を回っている。ああ、こりゃ駄目かもしれん。私は早々に諦めると息子の名前を呼んだ。
「お腹すいてきた? おやつ食べる?」
 そう聞くと泣き声がぴたりと止まる。はい、と返事が返ってくる。くはっ、げんきんなヤツめ。
「じゃあ台所にあるお菓子とってきていい?」
 そう言って私は息子を下ろそうとするが、息子は私にしがみついたまま離れない。やれやれ。私はひとつため息をつく。ひっつき虫を抱えたまま台所に向かった。おやつの用意をしつつ、私はさっき書いたお題小説の続きを考えてみる。そういえば女パートは外に出た所で終わっていたっけ。いっそのこと、女を先に居酒屋に行かせて男と鉢合わせてみるのも面白いかもしれない。また機会があったら書いてみよう。
 そんなことを思いながら私は牛乳をコップに注いだ。一度レンジでチンして温める。片腕で息子を支えながら、お菓子とできたばかりのホットミルクをテーブルの上に置いた。息子を椅子に座らせる。子供がおやつに集中しているのを確認したあとで、私は再びパソコンの前に戻った。本日の更新作業を進める。無事アップロードできた所で、私はほう、とため息をつく。
 私がお題小説を始めてからふた月半。最初は無理かも、と思ったけど「案ずるより産むが易し」とはよく言ったもので、それなりに物語は書けるものだと気づいた。要は集中力の問題なのだろう。創作に取りかかれるのは子供が昼寝をしている間だ。
 私は二時間あるかないかの限られた時間で小さな物語を紡いでいく。それは些細な日常だったり、恋愛だったり。たまにファンタジーを書くこともあった。二時間ほどで書きあげた話は推敲もろくにしてない。それでも物語を完成させたことで私は満足と自信を取り戻していた。
 春に始めたこの挑戦も一つの節目を迎える。今日で最初に与えられた八十個のお題を全て消化したのだ。それぞれの物語は稚拙で、恥ずかしくて、物足りない。それでも話を書くのはとても楽しかったし、その途中で続きや新しいアイディアが膨らむという嬉しい誤算もついてきた。悪戦苦闘した時もあったけど、とても有意義な時間だった――って、過去形で結ぶともう終わりみたいな感じになるけど、私の修行はまだまだ終わらない。
 私には目標がある。それは滞っていた物語の続きを再開し完結すること。何年ごしになるか分からないけど、愛着のあるキャラたちを幸せな結末へ導きたいのだ。
 ああ、そうだ。そろそろ競作企画のネタもそろそろ取りかからないと。毎年参加している夏の企画だが、今回は恋愛ものにしようかと考えていた。実はクライマックスのシーンだけ文章に起こしている。夕暮れの堤防に座りこむ男女の姿。男の背中に体重を預けながら自分の気持ちをぶつける主人公――このシーンは私の中でも思い入れが強くて描写にも気合いが入る。まさに腕の見せ所ってやつだ。
 私が妄想にふけってにたにたしていると、息子に頬をつねられた。物語もいいけど、こっちもちゃんとみなさいよね、そうもの申したげな眼差しだ。
 私は苦笑すると少しだけ肩をすくめた。(1695文字)


ということで、ラストは私小説っぽいので。現実との違いは娘だってことと、企画のクライマックスまだ書けてねーって所でしょうか。
本日で80フレーズⅠが完了。明日から3日ほどお休みを頂き、木曜日から80フレーズⅡを開始します

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2013

0615
 二度も床に頭をぶつけた俺は起き上がる気力を失っていた。あいつの足が俺の前でふらつく。二、三歩後退したあと、くるりと踵を返された。やがてヒールの走る音が届く。それは徐々に小さくなり、やがて扉の向こうへと消えて行った。誰もいなくなった社内で俺はようやく体を起こす。
 一瞬何が起こったのか分からない――というより信じられなかった。
 自分の唇に指を添える。あいつの唇の柔らかさは昔と何も変わらない。すき、の言葉が耳から離れない。
 もしこれが飲みの席だったら酔っているだけ、の話で終わらせていただろう。けどここは会社だ。お互い酒も飲んでいない。素面でもあんな冗談をかますような奴じゃないってことは俺自身が知っている。それに何より、あいつが逃げた時点で冗談でも何でもないということが確定してしまった。
 あいつは俺のことが好き――? そんな馬鹿な。
 俺は横にかぶりを振る。そりゃあ確かに俺とあいつは昔付き合っていた。まだ、この会社に入るずっと前――高校生の頃だ。
 あいつは何でも平均以上の結果を出す、いわゆる出来た人間だった。それでいて負けず嫌いで弱音を吐くのを誰よりも嫌っていた。だから何か悩み事があっても俺に相談することはなかった。
 友達関係の事や勉強のこと、進路のこと。あいつは苦しみや悲しみを一人だけ抱えて、自分で解決していった。いつも聞かされるのは事後報告。だから俺はキレた。
「俺の存在って一体何? 付き合っている意味あるの?」
 そう、あの時俺はあいつに問い詰めた。俺はあいつの辛さを一緒に分かち合いたかった。けどあいつは迷惑をかけたくなかったから、と言うばかり。俺はその一言で済ませようとしたあいつが許せなくて、あいつと何度も揉めた。
 結局喧嘩別れして卒業を迎えたわけだけど、俺はあいつを憎んでいたわけじゃなかった。ただこんな形で終わってしまったことを俺は後悔したし、残念に思っていた。
 大学を卒業した後、俺は中堅スーパーの事務職に就いた。その数年後、社の吸収合併で今の部署に配属になったわけだが、その時吸収した側から出向してきたのがあいつだ。赴任の挨拶でこんなことを言った。
「今日からこちらで働くことになった楢崎です。最初にいっておきますと、実は私には一つだけ欠点があります。それは何でも自分で解決しようとする所です。私はそれを直そうとしたのですがどんなに頑張っても無理でした。なので、それは個性なんだなって開き直ることにしました。でも、この性格では仕事をしても上手く回らないと思います。もし、私が仕事で詰まった時、何か一人で抱え込んでそうだな、と思った時は遠慮なく私を叱って下さい」
 そう言葉を結びあいつは俺を見た。おどけたように肩をすくめる。俺は苦笑した。それでもあいつも自分なりに努力していたのだと知って何だか嬉しかった。もう、昔のような関係には戻れないけど、また「ともだち」からなら始められる、そう思っていた。向こうもきっと同じ気持ちなんだろうと思っていた。
 だけど――
 俺は顔を手で覆う。そんな時、聞きなれた音楽が流れた。彼女からのメールだ。
 まだ仕事してるの? 無理しないでね。
 そんな言葉に胸が軋む。すぐに返事を書いた。わかったと画面に言葉を打ちこんで――指を止める。彼女に話すべきか一瞬迷ったが、結局黙ることにした。話した所で向こうが不機嫌になるのは分かっている。そもそも彼女は俺とあいつが付き合っていたことすら知らない。というかあれは不可抗力だ。黙っていればいいじゃないか。
 そこまで考えて、俺は失笑した。いつの間にか彼女への言いわけを連ねている自分がいる。あいつの気持ちに対して俺は逃げ道を作っている。自分の気持ちを否定している。本当はぐらぐら揺れているくせに。
 その昔、ずるい事を考えるようなるのは大人になった証拠だ、と誰かが言っていた。そんな奴になるもんか、と当時の自分は粋がっていたけど、今はその言葉が心に染みる。
 彼女宛てのメールを飛ばすことなく、俺は立ち上がった。ゆっくりとした足取りで会社を出て駅へ向かう。こんな日は酒でも飲まないとやってられない。俺の足は自然と繁華街へ吸い込まれていった。(1732文字)


29.もう戻れない」の続き立木視点。楢崎が言っていた【やっと「ともだち」まで戻したのに】というのはこういう経緯があったからなのです。

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2013

0614
 その日、私は相当へこんでいた。仕事で重大なミスをしてしまい、取引先にも上司にも叱られてしまったのだ。
 誰もいない職場でこっそり泣いていると、立木が現れた。立木は隣りの部署で働いている。私の同期であり、学生時代の友人でもあった。どうした? と聞かれたので私はなんでもない、と答える。それでも溢れる涙はなかなか止まらなかった。
 立木が私の隣りの席に座る。いつもならそこでからかってくる所だが、今日は何もしてこなかった。叱りや励ましの言葉をかけるわけでもない。ただ、私の側にいて、泣きやむまで待っててくれた。
 だいぶ落ち着いた私は、ずっと黙っていた理由を聞いてみた。すると立木はこう答えたのだ。
「お前が泣くのって『悔しかった』って時だろ? おまえ、昔っから自分厳しいじゃん。自分でハードル上げて、何もかも抱え込んじゃって。でもそういう弱音絶対吐かないし――というか、吐くのが嫌だろ? それに、おまえは何があっても復活するしな。時がきたら自分から話すんじゃないかなって。だから今は何も聞かない方がいいかなって。そう思っただけ」
「……私の事、知ったように言うのね」
「きっと、腐れ縁ってやつなんだろうね」
 立木はそう言ってにっと笑う。あいつの笑う顔は柴犬に似ている。犬好きな私はそれを見るたびに癒されていた。久々に見た笑顔はとても懐かしくて、愛おしい。
 私の気持ちのたがが外れた。閉じ込めていた気持ちが溢れ出す。
 気がつくと私は立木に抱きつきキスをしていた。すき、と言葉を紡いでいた。ふたり分の重さに耐えられなくなった椅子が横倒しになる。床に頭をぶつけた所で私ははっとした。
 同じように頭をぶつけた立木が私ごと体を起こす。私は立木を突き飛ばし、逃げるように会社を飛び出す。駅までの道を走りながら、私は自分を叱咤した。
 なんであんなことをしちゃったんだろう。私の馬鹿馬鹿!
 立木には彼女がいる。彼女は私の隣りの席で働いていた。立木に彼女を紹介したのも私だ。付き合ってるんだと話を聞いた時、最初は自分のことのように嬉しかった。立木はいい「ともだち」だったし、彼女は可愛い後輩だし。赤い糸を結べてとってもいい気分だった。それなのに。何時の日からかそれを後悔する自分がいたなんて――情けないとしか言いようがない。
 私は自分の気持ちを閉じ込めた。箱にしまって、鎖を巻いて、頑丈な鍵をかけた。それなのに、立木の言葉はその鍵を簡単に壊してしまった。
 明日からどうしよう。私は立木の顔をまっすぐ見ることはできない。立木も戸惑うに違いない。やっと「ともだち」まで戻したのに。もう「ともだち」にすら戻れない。
 私は自分のしたことを激しく後悔していた。(1125文字)

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2013

0613
 六時間目の授業が終わった後、先生がクラスのみんなに校庭に出るように、と言った。僕の周りで何だ何だ、と騒ぎが始まる。お祭り気分でクラスのみんなが外に出てみると校庭の隅にある花壇に大きな穴が空いていた。穴の周りには靴跡がいっぱいついていて、どうみても人間の仕業と分かるものだった。
 先生の話によるとこの穴はお昼頃掘られたのだという。昼休み、一番に外に出た上級生がこれに気づいて、先生に話したらしい。
 僕達のクラスは四時間目が図工の時間で、今日は校庭で写生大会をしていた。それぞれが好きな場所で絵を描き――もちろんその時花壇の花を描いたクラスメイトもいた。その時花壇には何の変わりもなかった。そして終了のチャイムと同時にだいたいの生徒は教室に戻っていった。だいたい、というのは数人の男子が校庭にあったサッカーボールで遊び始めたからだ。彼らは先生に注意され、チャイムが鳴ってから十分後に教室に戻った。
 ここまで聞いたら、その先の話はだいたい想像できる。
「怒らないから正直に答えて下さい。これは誰がやったのか、見ましたか? 心当たりはある?」
 先生の質問に、知らない、とかやってない、とかいう言葉があちこちから飛び交った。サッカーをしてた男子らもお互い顔を見合わせ首を横にかしげていた。誰もが驚きの顔でとぼけた様子は何処にもない――僕と吉沢さんを除いては。
 吉沢さんはきゅっと唇を噛みしめている。彼女は園芸クラブに入っていて毎日花の世話をしていた。穴が掘られた場所には日日草が植えてあって、もう少しで花が咲く所だった。一生懸命育てていた花を根こそぎ抜かれて、彼女は悔しくてたまらないといった様子だった。
 そして僕はといえば――もちろん犯人ではない。でも僕は見ていた。授業が終わった直後、男の子が一生懸命穴を掘っていたのを。でも、それを言った所でどうにもならない。花壇に残った靴跡だって証拠にもならない。だって、この運動靴を持っている生徒はこのクラスにいないんだから。
 僕は校舎の時計を見る振りをしながら振り返った。犯人はまだこの近くにいる。クラスの集団の後ろの方で、今にも泣きそうな顔で自分の掘った穴を見つめている。
 クラスの誰もが黙っていたので、先生がふう、とため息をついた。
「わかったわ。この話は一旦終わりにしましょう。でももし、自分で悪いことをしたな、って気持ちがあるなら、正直に話してちょうだい。先生、誰にもいわないから、ね」
 そう言って先生は僕たちを問題の場所から放してくれた。クラスメイトがひとり二人と花壇から離れていく。犯人も歩きだしたので僕はあとを追いかけた。校庭を横切り、校舎の脇にある渡り廊下をとびこえる。体育館の裏まで来た所で僕はねぇ、と声をかけた。
「何であんなことしたの?」
人が追いかけてくると思わなかったのか、犯人は肩をびくりと震わせた。坊主頭に丸い眼鏡。頬に涙のあとが残っている。外は暑いのに長袖のセーターを着ていた。向こうからの返事がないので僕はもう一度聞いた。
「何で花壇を掘ったりしたの?」
 しばらくして、男の子がぽつりと答えた。
「たからもの」
「え?」
「宝物を探していたんだ。あの場所に埋めたのに。見つからないんだ。僕達の宝物、どこにいっちゃったの?」
「それは――僕にもわからない」
「どうしよう。宝物が見つからなかったら僕――『あいつ』に宝物が渡せない。『あいつ』明日田舎にいっちゃうのに」
 そう言って男の子はおいおいと泣きだしてしまった。どうしよう。
 僕はどうしたら男の子が泣きやむのか考える。答えはすぐに出た。
「じゃあ、僕も宝物を探すの手伝うよ」
「一緒に探してくれるの?」
 男の子はすがるように僕を見上げた。僕はうん、と頷く。
「だけど、ひとつお願いがある。もし宝物が見つかったら、その時は吉沢さんに謝ってくれる? あの子、花壇の世話をしていたんだ。花が咲くの、とっても楽しみにしてたんだ」
「言ってる事が良く分からないけど……うん、わかった。おまえ、名前は?」
「沢井たくや。君は?」
「僕は鈴木タロウ。よろしくな」
 そう言ってタロウは僕の手を握ろうとした。握手でもしようと思ったのだろう。でもタロウの手は僕の腕をするり突き抜けて、空を掴んでいた。(1765文字)

犯人は人外でしたーなオチ。幽霊ネタ意外に多くて沢井もこれで3回目の登場という。思いつくまま書きながら、この後沢井はタロウと花壇の中あさって、それを他の誰かに見られて犯人扱いされるんだろーなー、とか、吉沢さんは実は初恋の人で、誤解されて嫌われて静かにショック受けるとか。そんな妄想広がってましたわ。

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2013

0612
 光射す庭にその人は立っていた。あの人が林原さんよ、と言われ私の心臓がどくん、と波打つ。
「林原さん」
 介護師の先輩の呼び掛けに私は息を呑んだ。ゆっくりとその人が振り返る。黒々としていた髪の色はすでに抜けていた。額の皺がやたらと目立つ。目は落ちくぼみ、頬もだいぶこけている。でも、当時の面影があった。間違いない。この人は私の――
「今度私と一緒に働くことになった、三崎さんです。み、さ、き、ま、あ、こ、さん。具合悪い時とか、何かしてほしい時は彼女を呼んでくださいね」
「こんにちは」
 目の前にいる老人に私はお辞儀をした。目が合うと、老人は口元をほころばせる。柔らかく優しい微笑み。違う、と私は思った。
 この人は私の父じゃない。同じ顔だけど、私の知っている父じゃない。
 私の記憶の中の父はいつもお酒を飲んでいた。母と私に向かって怒鳴り散らしていた。血を吐くまで何度も殴られ、母は父のせいで脳内出血をおこし亡くなった。父は傷害致死の罪で逮捕され、家にひとり残された私は施設へと送られた。父は数年間刑に服した。
 先輩の話によると出所後は小さな鉄工所や工事現場で働いていたらしい。職は幾つか変わったが、どの職場でも真面目に働いていたようだ。
 私は父の消息を突きとめようとは思わなかった。母を殺した父を許せなかったし、会う気もさらさらなかった。今、この場にいるのは運命の悪戯といってもいい。
「はじめ、まして」
 何十年ぶりに会う娘に父はそう言った。はじめまして。その言葉に私はほっとしたような、そうでないような複雑な感情を抱く。父は認知症が進んでいて、時々記憶が抜けおちるのだという。肝臓もだいぶやられていて、こうやって外に出られるのは珍しいらしい。
「こんな、老いぼれ、ですが、よろしく、おねが、い、します」
 父が手を差し出し握手を求める。私は一瞬躇ったが、先輩に促され、恐る恐る手を差し伸ばした。父の手に触れるのは何十年ぶりだろう。父の手は皺くちゃで痩せていて、ごつごつしていた。
 そのうち父の唇がまぁちゃん、と動く。懐かしい響きに私は動揺する。二つか三つの頃まで、私は両親にそう呼ばれていた。まだ幸せだった頃の話だ。
 まぁちゃん、まぁちゃん。そっちに行ったら危ないよ。外に出る時はお父さんと手をつなごう。ほら。
 そう言って差し出された手はとても大きくて温かかった。そして、父と手をつないだあと私は反対の手を母に差し出していた。いちにのさん、で二人に持ち上げられる、あの瞬間が大好きだった。
「まぁ、ちゃん」
 父が私の名を呼ぶ。私の手をぎゅっと握っている。
「まぁ、ちゃん」
 父は何度も私の名を呼んだ。とても嬉しそうに。そして私の手をそっと包み込んだ。
「林原さんったら。三崎さんのことが気に入ったみたいね」
 何も知らない先輩は私達を見てにこにこと笑っていた。私は困惑する。父は目の前にいる人間が自分の娘だと気づいたのだろうか? 疑問が渦を巻いて私の中を駆け巡る。老いぼれた手を振りほどけばいいのに、それができない。
 私達はしばらくの間手を繋いだまま過ごす。父は事あるごとにまぁちゃん、と呼び続けていた。(1304文字)

介護施設で絶縁していた父と娘が再会するという話。父への恨みと楽しかった思い出の間で葛藤を続ける娘を描いてみた。

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プロフィール
HN:
性別:
女性
自己紹介:
すろーなもの書き人。今は諸々の事情により何も書けずサイトも停滞中。サイトは続けるけどこのままでは自分の創作意欲と感性が死ぬなと危惧し一念発起。短い文章ながらも1日1作品書けるよう自分を追い込んでいきます。
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