2013
その日、僕は子役時代の仲間二人と待ち合わせをしていた。彼らに会うのは実に五年ぶりのことだ。
指定された店に僕は十分遅れで到着する。通された個室にはすっかり大人びた戦友がひとり、携帯をいじっていた。
「あれ? 久実だけなの? 慧は?」
「仕事が押してるみたい。あと三十分でこっちに向かうってさー」
「そっか」
僕は久実の真向かいの席に座った。慧が食事にと用意した店は隠れ家的存在らしくとても静かだ。周りの視線や声を気にしなくてもいい。
慧から連絡があったのはつい一週間前のこと。久々に三人で会いたいというので当初の予定を繰り上げて来たのに。当の本人が遅刻とは。
「それならもっとゆっくり来ればよかった」
思わず本音を漏らすと久実がだよねー、と同意した。
「何なら先に注文して食べていいって言われたけど――どうする?」
久実にそう言われ僕は考える。
今回の待ち合わせの時間は午後の四時。ひどくお腹が空いているわけではない。
ついでにいうなら二人とは顔を合わせなくてもちょくちょく連絡を取り合っていた。だからこれといった目新しい話題もなく――喋ってもそれほど時間は持たないだろう。
僕が考えあぐねていると久実が手持ちのトランプをちらりと見せた。やる? と聞かれたので僕はすぐに頷いた。時間を潰すのにゲームはもってこいのアイテムだ。
「何やる?」
そう聞かれたので僕はじゃあポーカーで、と答えた。彼女は一瞬目を丸くしたがすぐにわかった、と答えた。
彼女とトランプするのは何年振りだろう。
当時は仕事前の楽屋とか、休憩時間によく遊んでいた。けどあの頃の僕は彼女に一度も勝つことができなかった。
カードが配られ僕は自分の手駒を確認する。当然ながらこの並びでコールすることはできない。
手持ちのカードを二枚流してから僕はそういえばさ、と久実に話しかける。
「京都で慧に会ったんだって?」
「修学旅行で太秦行った時にね」
「金持ちの男連れてたって聞いたけど。もしかして彼氏とか?」
僕の言葉にカードを眺めていた久実の視線が動いた。僕の方をちらりと見たあとで別にぃ、とかわされる。
「あれは友達――じゃなくて後輩? いやライバルだな」
「何だそれ」
「そういう関係なのよ」
淡々と述べた久実はカードの山に手をのばした。指の腹で二枚抜きとり、自分の元へ引き寄せる。彼女は出てきた内容に眉ひとつ動かさない。
ゲームをする時、久実は無言で無表情になる。彼女のペースに呑まれるのも癪だったから積極的に話しかけたつもりだけど、これは失敗だったようだ。
だから僕は自分の手を動かすしかない。カードを三枚交換する。その後も一枚、四枚、二枚とカードを交換を続けた。
しばらくの沈黙のあとで、久実が口を開く。
「で、陸のほうはどうなの? 『彼女』と上手くいってる?」
「彼女って誰?」
「とぼけないでよ」
陸も今、恋人がいるでしょ? その問いかけに僕はどきりとした。
「ここに来る前会ってなかった? 服につけまつげが引っかかってるよ」
「え?」
確かに、ここに来る前、僕は彼女に会っていた。一月ぶりに会ったものだから思わず感情が高ぶって抱きしめてしまった。
動揺してしまった僕は自分の服を確認する。そのせいで手持ちのカードをうっかり落としてしまった。僕のうろたえぶりにあはは、と久実が笑った。
「うそうそ。つけまつげなんてついてないよー」
「え?」
「こんなカマかけに引っかかるなんて。おぬしもまだまだのよぉ」
つまりは騙されたってことか?
僕は思わずムッとする。そんな僕を気にもせず、久実はコール、と叫んだ。
テーブルにカードが置かれる。左からクラブの十からキング。最後にエースが降臨。最強の役にこっちはお手上げだ。
こっちはエースのスリーカードを狙ってたのに。どうりで最後の一枚が来なかったわけだ。
「相変わらず『引き』が強いよな」
「そんな簡単に勝ちは譲らないもんねー」
子供じみた言葉に僕の口元が思わず緩んだ。久実と会うのも実に五年ぶりだ。その間に彼女も成長しぐっと大人になった。けど無邪気な笑顔は昔と何ら変わらない。その才能もだ。
久実の集中力は当時から飛びぬけていた。演技でもゲームでも一度スイッチが入ったら完全にのめり込んでしまう。その才能は役者にとって喉から手が出るほど欲しいものだ。
それだけに勿体ないな、と思う。
「なんで劇団辞めちゃったの? 可愛くて素質もあったのに。もう少し続けてたらいい役来たかもしれないのに」
「あーゆーのは運がモノを言う世界でしょ? 私にはそっちの運がなかっただけ」
「そうかなぁ」
「つうか陸も何で辞めちゃったわけ? お父さんみたいな役者目指してたんじゃないの? 私より運があると思ってたのになぁ」
「ツキばっか巡っても、上手くいくわけじゃないんだよ」
僕は皮肉めいた言葉を吐いたあとでカップに口をつけた。冷めたコーヒーには苦みしか残らない。それは昔の自分を思い起こさせる。
僕は育った環境も遺伝子も、とても恵まれている方だと思う。でも、だからって全てが上手く回るわけではない。
僕はいつも自分の努力を認めてもらえなかった。
父の息子だから演技ができて当たり前だと思われる。上手くできたと思っても偉大な役者の息子だから、で済まされてしまう。僕の後ろにはいつも父の影がまとわりついていて、皆それを恐れ崇めていたのだ。
自分を見てもらえない虚しさが続いた後、僕は役者そのものに執着するのをやめた。このまま続けていても僕は押しつぶされるだけだと思った。
父のつてで回ってきた役を何度か蹴ると、おべっかを使っていた周りがあっさりと身を引いてきた。おかげで僕は中学卒業を前に心おきなく役者から決別することができたのである。
「僕らの中で残ったのは慧だけか」
「最初に脱落すると思ってたのになぁ」
「なぁ」
慧が今も役者を続けていることは僕自身も驚いていた。どちらかと言えば慧はそういったのに無関心で、どちらかといえば彼の母親が熱をあげていた。
友達と遊べなくなるから、自分の好きなことができなくなるからと、慧は練習に出るのも嫌がっていてた。なのにそれが今はどうだ。去年演じたドラマの役が当たって今や話題の人だ。有望な若手俳優とまで言われている。
「世の中おかしいよな」
僕は思わず呟いた。愚痴とも呼べる一言に久実が反応する。
「何? 慧が羨ましいの? 役者に未練あるとか?」
「そんなのはもうないさ。でも――」
「納得がいかない?」
「そういうこと」
本当、神様はどういう基準で持って人生を決めているんだろう。
僕の素直な気持ちに久実はそうだね、と目を細めた。
やがて、噂の本人が店に到着する。懐かしい顔がひょっこりと顔を出すと、僕と久実は口を揃えて遅い、と叫んだ。
本サイト作品「スキャンダル」に出てくる男の子、そして東西に出てくる久実の過去をちらりと。
2013
毎年クリスマスの夜は家族と過ごしていた私。けど、今年は友達とカラオケボックスでパーティをすることになった。ほんの二時間だけど、友達同士で過ごす夜は色んな意味でどきどきする。それは他の皆も同じようで、誰もが頬を上気させていた。
私達は食事もそこそこに今年流行った曲を立て続けに歌う。歌い手を後押しするのはタンバリンやホイッスルといった楽器たち。私も自前のハンドベルを持って場を盛り上げていた。
私のベルはタンバリンよりも高い音が出やすい上に良く響く。だから誰よりも人の目を惹きつけた。今も歌い終わったばかりの友達が私のベルをまじまじと見つめて聞いてくる。
「それ、何処で買ったの?」
「買ったんじゃなくて貰ったの」
「それって彼氏からのプレゼントとか?」
「違うよ。サンタからのプレゼント」
「サンタって、まさかサンタクロース?」
「そうだよ」
あっさりと認める私に友達がぷっと吹き出した。
「真依ちゃんってまだサンタさん信じているんだー お子様だねぇ」
ちょっと馬鹿にしたような言葉に私は何とでも言え、と返す。最初の頃はその台詞を聞くたびに怒ったりムッとしたりした。けど今は何を言われても笑っていられる。
それは私が誰よりもサンタのことを知っているからだろう。
世の子供たちを喜ばせるサンタクロースの正体、実は私のお父さんなのだ。
お父さんは私が生まれる前に交通事故で亡くなった。でも成仏する前にサンタの元に弟子入りして修行を積んでいた。
それを聞いた時、私はまだ五歳だった。お父さんも一人前のサンタになったばかりだったという。そして初めての仕事の前に私に会いに来てくれたのだ。
十年前のクリスマス、留守番をしていた私はお父さんとクリスマスの準備をした。ツリーに飾りつけをして、食事の準備をして。お父さんは私とお母さんに素敵なプレゼントまで用意してくれた。
もしかしたらあれは夢だったのかも、と思ったこともある。けどクリスマスが訪れるたびにやっぱり現実だったのかなと思い直すのだ。お父さんは私との約束を今も守っている。サンタにとってクリスマスはとても大事な一日なのに。その中のほんの一瞬をお父さんは私の為に割いてくれている。サンタの正体を最初は誰かに喋りたくてたまらなかったけど、中学生になると秘密は私にとって特別を意味するものになっていた。
ぼんやりと過去の事を思い出しているうちに一曲終わってしまった。間髪入れず次の曲のタイトルが画面に映しだされる。スピーカーから流れてきたのは私の好きなバラード曲だ。
「次、歌うの誰ー?」
「はいはーい」
私は手を上げるとお立ち台に上がった。ベルを持っているのとは反対の手でマイクを握る。ゆったりとした曲調に合わせて体を揺らすと周りも楽器の音を小さめにして私の気持ちを盛り上げてくれる。
歌いだしまであと2拍。私が息を吸い込んだ、その時だ。
高音が私の耳をつんざく。シャンシャンと鳴り響く鈴の音は曲の伴奏ではない。これは私だけにしか聞こえない――サンタからの合図だ。
「ちょっと代わりに歌ってて」
私は隣りの子にマイクを押しつける。ベルを持ったまま部屋を飛び出した。
店の外に出て空を見上げる。今日は曇り空で星が全然見えない。吐き出した息が白いもやを作って空の彼方へ消えてゆく。鈴の音は徐々に大きくなって私に近づいてくる。
そして――
カラン、カラン、カラン。
ひときわ響く鐘の音に私の心がうずいた。
カラン、カラン、カラン。
空に広がる一定のリズム。それは元気? と問いかけているようにも聞こえる。
私はハンドベルを空に掲げると腕を大きく振った。
りぃん、りぃん、りぃん。
澄んだ音が空へと飛んでいく。私の返事は届いただろうか?
「メリークリスマス」
空翔るサンタクロースへ向かって私はそっと呟いた。
本サイト作品「サンタになったおとうさん」の十年後の話。
2013
学校から帰ってきた僕はランドセルを背負ったまま台所へ向かった。洗い場に今朝空っぽになったばかりのジャムの瓶を見つけて手にする。それから冷蔵庫の横にあるアルミホイルを取った。
これで必要な材料はあとひとつ。けど、それらしきものが何処にも見当たらない。
ここにあれば見つかると思ったんだけどな。
僕はテレビを見ていたお母さんに声をかけた。
「お母さん――グリセリンってある?」
「グリセリン? 何に使うの?」
「これ作るのに必要なんだって」
僕はさっき学校でもらった紙を見せた。今日初めて会ったあの子の姿を思い浮かべる。
帰り道の途中、僕は忘れものに気づいて学校に戻った。
先生以外誰も居ない学校はとても静かで、一人で廊下を歩いているとちょっと早い肝試しをしているような気分だった。そして通り道に使った理科室の前から物音が聞こえて――おそるおそる覗きこんだらあの子が「これ」を作っていたんだ。その美しさに僕は思わず見とれてしまった。そしてあの子に気づかれてしまったんだ。
あの子が書いた手順の紙をお母さんがじっと見ていた。へぇ、と声を上げている。
「これって自分で作れるのねぇ」
「なければ洗濯のりでもいいんだけど」
そう本当は洗濯のりでも十分作れるらしい。けどグリセリンがあるならそれを使った方がいいとあの子は言っていた。その方が瓶の中がもやっとしなくて中の人形が綺麗に見えるんだとか。
お母さんはソファーから立ちあがるとちょっと待ってね、と言った。洗面所に向い洗剤の詰め替えが置いてある棚をごそごそと探ってる。
「確か化粧水作る時に薬局で買ったのがまだ残ってると思うんだ――ああ、あった」
お母さんは棚の奥から白いボトルを引っ張り出してきた。どうやらグリセリンは液体で薬局で売っているものらしい。名が書かれたラベルを眺めながら僕は何故女の子が理科室で作っていたのかを理解した。
「作るなら『これ』も分けてあげる」
そう言って渡されたのはキラキラが入った小さな入れ物だ。それはラメというものらしい。
全ての材料がそろった所で、僕は自分の部屋に戻った。調達した材料を机の上に広げ引き出しの中を探る。引き出しの中にあるのは勉強の道具――ではなく、おもちゃだ。それらのほどんどはお菓子のおまけでついてきたものだ。
僕はガラス瓶に入りそうな大きさのものを探す。手を突っ込んでかき回すと奥の方から帽子をかぶった雪だるまが出てきたのでそれを使う事にした。
あの子からもらった紙を見ながら作業にとりかかる。
まずは雪だるまををペットボトルの蓋にくっつけて、更にそれを瓶の蓋に接着剤で留めて。そのあとガラス瓶に水をいれて、細かくしたアルミホイルとラメをたっぷり入れてグリセリンを少し足す。雪だるまのくっついた蓋をきっちり閉めたら完成だ。
僕はガラス瓶をひっくり返す。上下がひっくり返ったことで、底に沈んでいたアルミホイルとラメが水中を泳ぎ始めた。使ったのはガラス瓶だけど、見た目は店に置いてあるのと何ら変わらない。最初は水が溢れるんじゃないかとひやひやしていたけれど、その心配もなさそうだ。
ちょうどその時、姉ちゃんが部活から帰ってきた。机に置いてあったガラス瓶を見て、わあ、と声を上げる。
「さっきお母さんから聞いたけど――スノードーム、完成したの?」
「うん」
「良くできてるじゃない。作るの難しかったでしょう?」
「ううん」
作業時間は三〇分くらいだった。あの子の言うとおり、本当に簡単にスノードームが作れちゃった。
でも、あの子の作ったものに比べたら僕のはまだまだだと思う。
あの子の作ったドームはサンタと松ぼっくりが入っていた。松ぼっくりは赤や青や黄色のビーズがちりばめられていて、クリスマスツリーみたいだった。ひっくり返すと粉雪が降って――うっすら積もる姿にあの子のさみしそうな横顔が重なって――僕は思わず足を止めてしまったんだ。
明日あの子にお礼を言わなきゃ、と思う。
それに僕のつくったスノードームも見てほしい。
あの子は色白で目がくりくりしていていた。落ちついた喋りはとても大人っぽくて、顔の可愛さとのギャップが印象的だった。
あんな子、六年生にいたかな?
他のクラスでも見たことがない。もしかしたら四、五年生とか?
明日下級生の教室を覗いてみようかな?
そんなことを思いながら僕は雪だるまを眺めていた。
本サイトで書いてたハナコさん話。久しぶりに児童側の視点で書いてみた。
2013
「おねえさんってこの間テレビでピアノ弾いてたよね。なんでここにいるの?」
いがぐり頭の少年は身を乗り出して私に聞いてくる。すぐそばに親らしき人の姿がないことが気になったけど、少年の着ていた服がパジャマだと気づき、嗚呼、と納得する。ここに入院しているんだ、となんとなく悟った。
私は当たり障りのない答えで少年の質問をかわす。
「ここの先生にご用事があったの」
「そうなんだー。じゃあなんでボールにぎにぎしてるの?」
「ボールを握って手の力を鍛えてるの」
「それってピアノ弾くのに必要なの?」
「――そうだよ……僕、飴でも食べる?」
私はバッグからソーダ味の飴玉を取りだした。それは以前DVDを借りた時に店員がくれたものだ。
甘い誘惑に子供はやったあ、と声を上げる。
「おねえさん優しいー。ありがとぉ」
無邪気に喜ぶ少年はすぐさま包装紙を取り払い、飴玉を口の中に入れる。
美味しそうに味わう少年に周りは温かい眼差しを向けていた。顔見知りの看護士でさえも、私たちのやりとりを微笑ましく見守っていた。
でも彼らは知らない。私が子供の純粋な言葉に心を抉られていることを。
にこにこ笑っているけど、本当は頬がずっと前からひきつっている。肩だって、ぷるぷると震えている。
本当は大声を上げて叫びたかった。
五月蠅い、目障りだ、私の前から消えてしまえ。二度と私に話しかけてくるな。
ここが病院でなかったら、私は握りしめているボールをこのガキにめいっぱい叩きつけていただろう。
先月、私は交通事故に巻き込まれた。命は助かったけど、命よりも大切な指を失った。負った傷は神経をも引き裂き、私は自由を奪われた。
見た目は分からないけど、私の指はもう以前のように動かない。リハビリは続けているけれど元に戻る確証などどこにもない。今の私はピアノを弾くことも、世間のいう「七色の音」を紡ぐこともできない。
物心ついた頃から私は音楽と共に生きてきた。ピアニストになるために血のにじむような努力を積んできた。それは辛いことの方が多かったけど、それでも私は音楽を愛し続けていた。
私から音楽を奪う事は死を意味する。傷は塞がれたけど、私の心は死んだも同然なのだ。
「なぁ、おねえちゃん聞いてる?」
少年の声に私ははっとする。顔を上げると少年の眼差しが私を射抜いた。あまりにも真剣に見てくれるから私は戸惑ってしまう。
「えっと。何ていったんだっけ?」
「だーかーらー。今度俺にピアノ教えてって」
「え?」
「俺、おねえさんのピアノ聞いてカンドーしたんだ。俺もあんなふうにカッコよく弾いてみたい。だから教えて」
宿題を教えてと言うのと同等に少年は私に頼んできた。それを聞いて今度こそ止めて、と拒むチャンスだと思った。
無理なの。どんなに頑張ってもできないの。だから他の人に頼みなさい。
私はもう終わった人間。ピアノはもう一生弾けないんだから――だから。
「嫌……だ」
私はようやく本音を言葉に落とす。でも、それは少年に向けた言葉ではない。気がつけば私の頬を涙が伝っていた。
ピアノが弾けないのなら私には生きている意味がない――
他人が聞いたら何を大げさな、と笑われるだろうけどそれが今の私の心境だ。私は崖っぷちに立っていた。未来に希望なんてあるわけがない。
崖から飛び下りることができたらどんなに楽だろうって思う。体も粉々になれば、私は救われるのかもしれないと。でもそんな勇気などなく、惰性のままリハビリに通うのが現実で――
否、違う。
本当は一縷の望みに賭けていた。
今日はできなかったけど、明日はできるかもしれない。次はできるかもしれない。そんな未練たらたらの気持ちでリハビリを続けていたんだ。
こんな自分はみっともないって思ったから、渋々やってるんだって思いこませて。
本当は、本当は――
「なぁ、おねえちゃん。大丈夫か?」
突然泣き出した私に少年はどうしていいのか分からず、おろおろとしていた。再び現実に戻された私はごめん、と最初に謝る。
そんな、泣くほど嫌だった? と聞いてくる少年に私は首を横に振った。ああ、大の大人が子供の前で泣いて情けない、と思いつつ。
「ごめんね。違うの、そうじゃないの」
私は頬に残る涙を払う。それから口元をほころばせて笑った。
2013
それはどこにでもありそうな、小さな小さな鍵だった。
あの世の閻魔大王曰く――これは「極悪人」と呼ばれた俺の唯一の良心なんだとか。俺にはそんな記憶はない。たぶん俺の中ではどうでもいい話で、強制排除されたんだろう。
とにもかくも。生前にしでかした親切とやらが、俺の地獄行きを保留にした。
「おまえが今持っている蝋燭が全て尽きるまでに、この鍵に合うものを探し当てれば地獄行きはなかったことにしてやろう」
閻魔大王の提案に俺は二度返事で承諾した。地獄行きがなくなるってことは当然、行くのは極楽浄土――天国に決まってる。
俺は意気揚揚でこのゲームに参加したわけだが――
これは意地悪問題だろ絶対!
今俺の目の前には無数のドアがある。その半数は錠がついたまま開いていた。残りの半数は固く扉が閉ざされていて、鍵穴すら見当たらない。閉じているドアはもちろん、こちら側から開けることができない。
こりゃ一体どういう事だ?
俺はさっきからない頭を必死に振り絞って考えていた。だが答えは出てこない。
そうこうしていくうちに手持ちの蝋燭は半分以下になっていく。
謎解きに疲れた俺はその場に胡坐をかいた。閻魔大王から渡された鍵を睨みつける。僅かな希望は焦りに変わり、やがて諦めに変わった。
どーせ馬鹿な俺には無理な話だったんだよ。
そんなことを思いながら俺は鍵を放り投げる。鍵は地面に打ちつけられ、変な音を立ててのさばった。あまりにも聞いたことがない音だったので、俺の注意がそちらに引かれる。
すると丁度鍵が地面にぶつかった所に煙突のような突起を見つけた。心なしか、その突起の色は子供の頃、天井裏に隠した宝箱の外装にそっくりで。
俺はゆっくりとそこに近づく。円柱の形をした突起は単なる岩ではなさそうだ。
地面に膝をつく。両手を使って箱の周りを丁寧に掘り出した。徐々にその姿があらわになる。それは確かに俺の宝箱だった。
不思議なことに、箱には小さな南京錠が取りつけられている。そんなもの、当時はつけてなかったのに。
そこで俺ははっとした。
そうだ、ヤツはこれが「扉の」鍵とは言ってなかったんだ。
ということは――
俺は小さな鍵を差し込む。右に捻るとぴきんと音を立てて錠が外れた。
この中には昔流行ったゲームやらどっかのお土産の化石やら鳴らなくなったオルゴールやらが入っていたはずだ。俺は何年振りかに見るそれらを期待して箱の蓋を外す。そっと中身を覗きこむが――
え?
俺はつい、間抜けな声をあげてしまう。箱の中にあったのは大きな渦だからだ。
渦は時計回りに回転するともの凄い勢いで俺を箱の中へ吸い込んでいく。小さな箱に閉じ込められた俺を待っていたのは、水しぶきだった。
液体の中へ放り出された俺はぶくぶくと沈んでいく。もとから死んでいるから息苦しさなど感じるわけがなく――というよりかなり心地よい。
しばらくの間、俺は水の中で漂っていた。くるりと体が回転するとぐにゃりとした感触が襲う。どうやらここは薄い膜のようなもので覆われているらしい。
俺の体が薄い壁に埋もれた。ぎゅうと押し付けられると膜はあっけなく破れてしまった。裂け目から水がどくどくと溢れ、俺は流れともに放り出された。
屋根つきのウォータースライダーに頭から乗せられた俺は右へ左へと体をくねらせる。そのうち道は狭くなり、最終的に俺の体は道を塞いでしまった。その情けない姿が蜂蜜を食べた間抜けなクマと重なる。そのうち壁が自ら動いて俺の体を締め付けてきた。
おいおい、ここが終点とか言わないよな?
これが極楽浄土だと? 冗談じゃない!
そんなことを思った矢先だった。
細く長い穴のずっと先にひとすじの光が見える。
それはきらきらと輝いていて、俺は不思議と確信を持てた。きっとあれが天国に違いないと。
俺は肩を左右に揺らす。体を螺子のようにゆっくり回転させながら先を進んだ。
濡れた頬に空気が触れ、思わず身震いした。
俺の肉体はすでに滅びている。だから体温などないはず。なのに、痛みや冷たさを感じる。自分の中で湧きおこる熱を感じる。
死しても五感は残るものなのだろうか。馬鹿な俺には分からない。
でもこれだけはわかる。あの先に極楽浄土とやらがあるのを。
俺は最後の力を振り絞って光の中に飛び込んだ。外側から一気に引きぬかれる。
数秒後、俺は声を上げて泣いていた。何故泣いていたのかは分からない。嬉しいわけでも、悲しいわけでもなく。ただ泣いていた。
泣きながら、俺は「俺」であることを忘れようとしていた――
****
「おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
看護士の声を、女性はぼんやりと聞いていた。胸の上に温かい何かが置かれる。それは女性の中で育まれた小さな命だ。
その愛らしい姿に女性の目じりが下がる。やっと会えたね、と囁く声は感動に満ちていた。
添い寝をしてたら思いついた転生話。