2013
電車が緩やかなカーブにかかると、西日が窓から差し込んだ。車内が茜色に染まる。ビルの隙間にゆっくりと沈んでゆく太陽は大きく壮大だ。こんな綺麗な夕焼けが見える日は決まって彼女のことを思い出す。
もう20年以上前のことだ。とある中学校に勤務していた私は生徒たち国語を教えていた。その授業でのことだ。
その日は吉野弘の詩を朗読した。詩の内容はこうだ。電車に乗った心優しき少女が目の前に立ったおとしよりたちに席を譲る。一人目は少女に礼も言わず降り、二人目はありがとうと言って電車を降りて行った。
そして三人目のおとしよりが少女の前に立った時、少女は席を立たなかった。唇を噛み体を強張らせ、うつむいたままだった。作者はそんな少女を気に留める。少女はこんなきれいな夕焼けを見ないでどこまでいくのだろう、と。
その授業で私は何故少女は席を立たなかったのか、という質問を生徒たちにした。生徒たちはお互い顔を見合わせ首をかしげたり、うつむいてしまった。そのうち、クラスの中でも気転が利く生徒が手を挙げ「少女は自分のしたことが恥ずかしかったのではないですか?」と答えた。
私は「そうですね」と言ってその生徒に及第点をあげる。すると「それって変じゃないですか?」と怒ったような声がした。振り返ると、黒板に近い席の女子生徒が左手を挙げている。
「少女は正しいことをしたのだから恥ずかしくないと思います」
彼女の頬はほんの少し赤らんで上気していた。声が震えていた。体が強張っていた。それはまさに、詩の中に出てきた少女そのものだ。きっと彼女も少女と同じようにおとしよりが立っていたら席を譲っていたのだろう。回りに「いい子ぶって」と言われても自分のやっていることが間違ってないと信じていたかったたのかもしれない。
普段感情を表に出さない子だっただけに、その言葉は私の心に強く刻まれた。彼女の言っていることは間違いではない。国語の文章理解は深く、意味と価値の解釈は無数にある。でも当時は詰め込み教育の真っ最中で複数の答えがあってもひとつ出れば十分というような風潮もあった。私もその教育方針に従い「そうだね」と相づちを打ったものの「でも、やっぱり少女は恥ずかしくなってしまったのでしょう」と言葉を続けた。
私は授業を進めた。時折彼女の席を見やるが彼女の体の強張りは一向に解けない。私は彼女の言葉を簡単にあしらってしまったことを少しだけ後悔した。その罪滅ぼしというわけではないが、後日保護者会があったとき、彼女の母親に「娘さんはとても真っ直ぐな心を持っていらっしゃる。これからの成長が楽しみです」と伝えた。
その言葉が彼女に伝わったかどうかは分からない。もう二十年以上の時が流れてしまった。成長し、立派な大人になったであろう彼女はどうしているだろう。あのまっすぐな心はまだ残っているだろうか。
つり革に掴まりながら、そんなことを思っていると「あの」と声をかけられた。窓際に座っていた若い女性がどうぞと席を立つ。その優しさに私は微笑みを浮かべると、ありがとうと礼を述べた。
生徒だった頃、昔自分ってこんなこと言ったよな、先生にこんなこと言われたなーという実話に基づく話。
2013
ああ、せっかくの休日だってのに。本当なら今頃、高原のペンションで友達と温泉と御馳走にきゃっきゃうふふしていたはずなのに。友達の親戚に不幸があって急遽キャンセルになってしまった。
謝罪の電話をしてきた友達はせっかく予約したんだし、他の人や家族を誘ったら、と言ってくれたけど、旅行にいくほど親しい友は彼女以外にいないし、家族との仲はあまり良くないので誘う気はない。基本人見知りなので一人旅する勇気もない。なので旅行そのものを中止せざるを得なかった。出発日のキャンセル故にお金は戻って来ない。それはかなり痛いが、見知らぬ土地にいきなり放りこまれるよりかはマシなんだろうと思う事にした。
明日の予定も私の心もぽっかりと穴が空いてしまった。なのでこれからその隙間を埋めなければならないのだが、私はそういうのを見つけるのが下手だ。どうして私はこういう突発事項に弱いのかしら。もっと時間を有効活用できないのかしら?
やらなきゃいけないことは沢山ある。掃除に洗濯に溜まった洗いものに――でもやる気が全く起きない。
とりあえず私はパソコンを開いて現実逃避して、ネットの世界をぐるぐる回ってみた。でも興味を引くものが見つからない。オンラインゲームを始めてもレベル上げるのが面倒になってすぐにアウトした。十分も経たずにパソコンの電源を落とした。
ベッドに転がる。ここで寝てしまって明日を迎えてもいいのだけど、それだとすごく損した気がする。すぐに眠ってたまるかと私は枕元にあった雑誌を広げ適当なページを開く。スイーツの特集が組まれた記事を見ながら私は自分が食べたいものを思い浮かべた。気持ちが乗らないしこんな時はお菓子が食べたい。ふわふわのスポンジにクリームと苺の乗ったショートケーキ。脳に思い描くだけでもじゅるりときそうだ。でも買う気力も作る気力もない。今は夜だし、最近体重がヤバイから甘いものは控えなきゃいけないし、つうか運動しろよ自分って感じ? いつぞや元カレに痩せろと言われて買わされたナントカエクササイズのDVDもすっかり埃を被っちゃって。押し入れのどこにあるかも分からない。まぁ、探す気もさらさらないんだけどね。
つけっぱなしになっていたケーブルテレビでは海外のドキュメンタリー番組が流れていた。クラシックカーのレストアだとかでエンジンルームに高圧洗浄機を流し込んでいる。ジェット噴射さながら湯気がもの凄い。エンジンにまとわりついていた砂や油を一気に飛ばしている。ああ、こんな感じで私にこびりついた無気力を吹っ飛ばしてくれないかしら?
というか、そもそも何で旅行に行こうって話になったんだっけ? ええとアレだ。私と彼女の誕生日が同じ月で日も近いから。だからたまには女だけで贅沢してお祝いしようねって話になったんだ。うちら四捨五入でアラフォー突入だよねと言った彼女は既婚者で子持ちで、久々に自由な時間を取れるんだーと電話ではしゃいでた。きっと彼女もこんなはずじゃなかったのに、と思ってるのかもしれない。けど親戚の相手でそれどころじゃないのかも。田舎で長男の嫁って大変そうよね。本人の前では言わないけど、私はそういう結婚は御免だな。子供は欲しいけど。うん、旦那も舅姑もいらないわ――
と、考えてるうちに時刻は夜の十二時を回り日付を超えた。土曜日よさようなら、日曜日さんいらっしゃい。日付けが変わった所で私の何かが変わるわけではないけど、とりあえず言っておく。
私はベッドから起き上がり、台所に向かう。冷蔵庫を開けた。中に一本だけ入っている缶ビールを手にして部屋に戻る。
もう年齢を簡単に口にすることのできる年ではない。かといって永遠の○才と言い続けるつもりもない。まぁ、今まで生きてきていい事の方が少ない気がするけど、人生を放棄するつもりはさらさらないし、これからやそれからのことは、なった時に考えればいい。
特別にいい事があったわけじゃないが、生まれてきて良かったな自分、とだけ言っておこう。
私は自分よおめでとさん、と呟くと空に向かって乾杯した。
本日あまりにもネタがなく無気力感に襲われたので。まんま文章に書いてみた。
2013
ぼくはおおきくなったらサンタクロースになりたいです。
なぜかというと、ぼくのなまえはさんたくろーすのなまえからとったからです。
クリスマスにうまれたぼくはさんたさんのうまれかわりなんだよとおじいちゃんがおしえてくれたからです。
サンタさんになったらトナカイのそりにのってせかいじゅうのこどもたちにプレゼントをくばりたいです。
そしてプレゼントをもらってよろこぶ、みんなのえがおがみたいです。
――小学校の授業でこんな作文を披露するとそれって海賊王のまちがいじゃねえの、と友達に笑われたことがある。でも僕は本気でサンタクロースになりたいと思っていた。
成長すると、周りからは馬鹿じゃねえの、とかもっと現実を見ろとか散々言われたけど、サンタクロースは確かに存在する。グリーンランド国際サンタクロース協会というのがあり、そこで認められれば世界的に認められ「自分はサンタクロースです」と名乗れるのだ。
サンタクロースになるにはいくつか条件がある。結婚していること。子供がいること。サンタクロースとしての活動経験があること。体重が百二十キロ以上あること。
これら全てをクリアし、書類審査を通過すればサンタクロース候補生として試験を受けることができるのだ。試験は筆記とかそんなものではなく、まさに体力と根性と夢への執着を問われるものらしい。その昔試験を受けて落ちてしまった祖父はそれはそれは大変だったと言っていた。
残念なことに、今現在アジア圏内でサンタクロースのの募集はない。なので僕は大学卒業後に就職を余儀なくされた。夢見る息子が大手の玩具会社に就職して両親は安心したようだけど僕はまだ、サンタクロースになることを諦めてなんかない。いつか募集が来た時に、条件を満たしていれば夢が叶う可能性は十分にある。
だから僕は前を向いて歩いた。自分の夢を叶えるために、幸せになるために。僕は生涯の伴侶を探した。そしてようやく見つけたのだ。
彼女は僕の夢を現実として受け止め応援してくれる。彼女と一緒なら僕は幸せになれる。そんな気がするのだ。
サンタクロースになることを夢見て何度目かのクリスマス。僕は彼女にプロポーズすることを決意した。自分で作ったサンタの衣装をまとって彼女が待ち合わせの場所に来るのを待つ。突然現れたサンタクロースに皆くぎづけだ。彼女がやってくる。僕はにこやかに手を振るとメリークリスマス、と叫び、今宵を祝った。
季節外れだけど、この話の続きが本サイトの某童話に繋がるんだよーという話。
2013
私が飛ばされたのは異世界にあるどこかの厨房だった。テーブルに豪華な料理が並んでいる。美味しそうな匂いが食欲をそそる。そそるのだが、私が今いるのは厨房の天上だ。しかも下には大きな鍋がある。スープでも作っているのか、ぐつぐつと音をたてている。下から漂う湯気が熱い。
うーわー、このままじゃ釜ゆでの刑じゃないか。なんで? なんで?
なんて私が焦っていると、時空の扉が閉まってしまった。引力が発生し、私はカレー鍋とともに落下する。ぎゃあああ、と情けない悲鳴が私の口から出ると、一緒に時空を「飛んで」きたヤツが何かを叫んだ。持っていた杖がくるりと回転する。
すると湯の中へダイブする数センチ前で私の体がピタリと止まった。淡い光が私の回りを取り囲む。ゆりかごのように揺れたあとで、私は無事足から着地した。
「おー、危ないとこじゃったわ」
いつになく焦ったヤツに私の心は揺れる。え、これって師匠の優しさってやつですか? 普段はお仕置きじゃーなんて言ってるくせに。やっぱり弟子の危機には手を差し伸べるんだ。
ヤツが弟子が心配で救ってくれたのかと思っていた。だがそうは問屋がおろさない。ヤツはせっかくのカレェが台無しになるとこじゃったわ、なんてなんて言うじゃないか。
私は持っていたカレーを鍋ごとヤツにぶちまけようかと思った。でも大おじさま、と呼ぶ声がして、その野望は海の藻屑となって消えてしまう。その女性は厨房の人混みをかき分けると私達の前に立った。年は私の両親よりも少し若い位だろうか?
「大おじさまじゃないですか。こんな所で何をしてるんですか」
「おお、クレアか」
知り合いなのかヤツが親しげにその名を呼んだ。クレア、という響きに私は自分の世界で売っているシチューの商品名を浮かべる。彼女はパッケージに描かれたイラストに負けず劣らずの優しげな顔を持っていた。
「いやぁ、あっちの世界のカレぇを手に入れての。ふぉっふぉ」
「あら、それはよかったこと。でも厨房にいらっしゃったのはどういうこと?それに隣にいるお嬢さんは……」
「こやつはワシの弟子じゃ。おまえにカレェの作り方を伝授したいとな」
「はあああっ?」
ちょ、そんな話聞いてないんですけど。つうかジジィが勝手にこっちに連れて来たんじゃないか!
「ふぉーっふぉっふぉ。そいじゃあとはたのんだぞよ」
奇妙な笑いを残し、ヤツは私の作ったカレーごとどこかへ消えた。詐欺師まがいのジジィにカレーを作らされ、有無を言わさず異世界に飛ばされた私はというと消化不良を超えて爆発寸前だ。
くっそぉ、あのジジィ! こうなったら適当な作り方教えて劇マズカレーでも作ってやるわい。
なーんて息を巻いていた私なのだが、ちらりと覗き見したクレアさんの期待の眼差しに私の悪意が削がれた。そんな純粋でキラッキラな目を向けられてしまうと、彼女を無下にすることはできない。仕方なく、私はどす黒い感情を封印する。クレアさんに正統な日本風カレーの作り方を教えることにした。
「まぁ、作り方――といっても、鍋に肉と切った野菜入れて炒めて適量の水入れて煮込んでルゥを入れるだけなんですけどね」
私がざっくりと手順を話す。するとクレアさんが首を横にかしげた。
「あの……ルゥって何なんでしょうか?」
ああそうか。こっちの世界では最初からできたルゥはないんだっけ。つまり自分で一から作らなきゃならないということ。私はルゥそのものの存在から説明しなきゃならないんだ。
「ええと、ルゥというのはカレーの元というか……」
私は唸った。カレールゥは昔々に一度だけ作ったことがあるけど上手く出来るだろうか?確か小麦粉とバターとカレー粉があれば作れたはずだ。
私はクレアさんに食材を保管してある場所を教えてもらい、そこへ向かう。厨房の奥にある扉を開くと、ひんやりとした風が私のもとへ吹き込んだ。何段にも積み重ねられた棚には肉や魚が置かれている。私はその一つ一つを確認しながら目的の品を探した。
棚をぐるりと一周したところで、白い液体の入っている金属製の甕を見つけた。これは牛乳、なのかな。ということは――
私は隣りにあったクリーム色の塊を手に取る。顔を近づけるとチーズとはまた違った、でも私の世界では覚えのある香りが届く。たぶんこれがバターだ。私はそれを抱え、もときた道を歩いた。
貯蔵庫から厨房に戻るとクレアさんが白い粉を用意して待っていた。
「私達がいつも主食に使っている粉です。普段はこれに水を足して捏ねて丸めたものを焼くんですけど――これでいいんでしょうか」
「それで十分です」
あとはカレー粉があればいいのだけど。
「あの、こちらには食材を味付ける――香辛料みたいのってありますか?」
「いくつかありますけど、どういったのを使いますか?」
「ええと……」
私は一瞬だけ説明に考えあぐねる。でもすぐに自分がカレー臭をまとっていた事を思い出した。
「あの、私のにおい、嗅いでくれます? それに近いものが欲しいんですけど」
「におい、ですか?」
けげんそうな顔をしつつも、クレアさんが私に近づく。鼻をひくひくさせたあとで、ちょっと待ってね、と言う。一度厨房を離れたクレアさんは数分後、一振りの枝を持って戻ってきた。
「これはどうかしら?」
彼女が私に見せてくれたのはどんぐりの形をした木の実だった。鼻を寄せるとカレーにも似た香ばしさが広がる。これを粉状にして入れればそれらしい雰囲気は出せるかもしれない。
私は昔の記憶を頼りにルゥを作り始めた。まずは木の実をすり潰して粉状にする。鍋にバターもどきと粉を一対一の割合で入れて炒め、先ほどのすり潰した粉をを入れた。あとは固まるまでひたすらかき混ぜるだけ。この作業が思いのほか辛い。
私はルゥを焦がさぬよう細心の注意を払った。そのおかげで、髪は勿論、着ていたパジャマも更なるカレー臭に包まれた。
ようやくルゥがまとまった。それをクレアさんが用意したスープで伸ばす。そのあとでこちらの世界で普段から食べられている野菜を加え、野菜が柔らかくなったら完成だ。ぐつぐつと煮立つカレー色を見てクレアさんがそわそわする。
「あの、味見してもいいですか?」
私の返事を待たずにクレアさんは行動に出た。自分の首に下げていた銀のスプーンを手に取ると、できたばかりのカレーをすくった。口に含み、じっくり味わう。そのあとで私の顔を見た。なんだか泣きそうな顔をしている。あれ? 失敗した? 見た目と匂いは同じなんだけど。それともルゥが辛すぎた? 口に合わなかったとか?
味が気になった私はクレアさんのスプーンを借りて一口味わう。口に入れた瞬間、なんとも言えぬ不味さが広がった。何だ。この砂糖を大量に入れたような劇甘カレーはっ。私は甕にあった水を柄杓ですくい一気に飲み干す。それでも舌に残る甘さはなかなか消えない。
たぶん、あの木の実がいけなかったのかも、とクレアさんは言った。なんでも、あの木の実は煮るとかなりの甘みが出るらしい。こっちの世界ではお茶受けや食後のデザートとして出るのだとか。そんなことだったら先に聞いておけばよかったわ。
私は甘ったるいカレーの入った鍋を見ながらため息をつく。匂いはカレーそのものなのに、味が全く逆って犯罪だな、と思いつつ。
「ええと……今度こっち来た時にカレールゥ持参しますので。その時また作りましょう……はい」
80フレーズⅠ「09.真夜中の祭」の続き。
2013
私は携帯を購入すると、早速電話番号の登録にとりかかった。私は分厚い説明書と格闘する。短縮一番に乗せるのは勿論、愛しのゆっきーの番号だ。ただ登録するのも何なので確認がてらに電話をかけてみる。けど、ゆっきーが電話に出ることはなく、すぐに留守番電話に繋がった。
「やっほ。えぃみぃだよーん。携帯買ったから次からこっちに電話かけてね」
そう伝言を残して通話を切る。すると十秒もたたないうちにピリリリリ、と芸のない着信音が私の耳をつんざく。画面にゆっきーと表示された。初めての着信にどきどきしながら通話ボタンを人差し指で押すとなぁにいいいっ、という悲鳴がスピーカーから飛び出す。
「おま、何血迷ったことしてんの。俺の寿命縮める気かっ」
「そんなつもりないけど」
「じゃあ止めろ。おまえに携帯は毒だ。今すぐ捨ててしまえ。つうかこの電話もすぐ切れ。でないと――」
「やだ」
「やだ、じゃない! おまえ自分が何してるかわかってんのか?」
「そんなのはわかっているけど」
「けど?」
「ゆっきーが何してるか気になって……私もベッドで電話したり、メールで話したくて」
「だったらパソコンで足りるだろ。毎日メールしてるだろ?」
「私がパソコン使えるの、昼間だけだって知ってるでしょ。ゆっきーは昼間仕事じゃない。私はリアルタイムで話がしたいの。だから勇気出して携帯買ったの。それって悪いこと?願っちゃいけないの?」
それを聞いてゆっきーは黙りこんでしまった。ありったけの気持ちをぶちまけた私は自分の胸元を押さえる。
私は心臓にペースメーカーを埋め込んでる。だから携帯電話の側には近寄るなと日頃から言われていた。自分の体のことについては嫌というほどわかってる。私にとって外出がどれ程危険かということも。
この世の人たちは携帯なしでは生きていけない状態だ。固定電話があっても家の中で使うし、電車や車の中でも使う。電源を切るようにと言われる場所でも、ちゃんと守れているかどうかも怪しい。だから私は死の恐怖を抱えながら外を歩いている。見知らぬ人にぶつかるだけでも悲鳴を上げそうなのだ。
でも、携帯はペースメーカーから二十二センチ離れていれば支障はないという実験結果が出てるのも事実だ。それは二十年近くも前の話で、今は携帯も進化しているからもっと距離を縮めても影響がないことが総務省で報告されている。それでも携帯を買うのにはかなりの勇気がいった。買う前から色んな機種を調べて、ペースメーカーとの因果関係を念入りに確かめて。きっとゆっきーが思う以上に私は携帯に対して神経質になっていたと思う。今だって肌に直接触れないよう、携帯を机に置いてスピーカーをオンにして少し離れた所で喋っているのだ。
多くは望まない。ゆっきーの仕事が終わって自由になる夜の数分だけ携帯を使わせて欲しい。ただでさえ離ればなれになってしまったのだ。これまで毎日会っていたのに。ずっと会えないのは淋しい。触れられないのは辛い。だから私は――
「ゆっきーは私のこと思って言ってくれたんだよね。こっちこそごめんね。まだ仕事なんでしょ?だったらもう切るね」
私は心臓に遠い方の手でボタンを押す。電話を切ったあとでため息をついた。私は机に置いた携帯をぼんやりと見ながら考え込む。するともう一度携帯が鳴った。私は恐る恐る電話に出る。ごめん、とゆっきーの声がした。
「俺が転勤を断ればおまえと離れることもなったのに――ごめんな」
ゆっきーの謝罪に私は首を横に振る。
「私はゆっきーの仕事している姿が好きよ。だから待つって決めたの。五年なんてあっという間よ」
大丈夫だからと私はいきがる。もっと強くなりたいと思った。ゆっきー以外にも自分が夢中になれる何かを探したい。自分の為にもなる「何か」がほしい。そう――私達の遠距離恋愛はまだ始まったばかりなのだから。